粗にして細なるが故に均ならざるもの
先日のロードバイクのライドからしばらくして、自宅がある浦安近辺で生じる「めまい」は随分と和らいだ。
次にやってきたのは首から後頭部にかけた偏頭痛。
偏頭痛が始まってから二日目だが、分かりやすく首や肩の筋肉が固く凝っているので、おそらく原因はこれだな。
ロードバイクのポジションが合っていない時の首や肩の張りと違って、もっと鈍い感じのコリだ。
人の体とは面白いもので、どこかに不調が生じたら、別の部位がそれを補おうとする。
めまいでふらつきそうになって、首や肩に力が入っていたのだろう。
持続的かつ複数のストレスを受ける浦安という街で生活している限り、たった1回のライドで脳の疲れが吹き飛び、めまいが完治することはない。
ライドの翌日はとても楽だが、ストレスが蓄積するにつれて悪化し、再びライドに出かけて楽になる。
雨でライドに出かけられない時はスピンバイク。
この忙しさと長時間通勤では平日の朝や夜にスピンバイクに乗っている余裕がない。
睡眠時間を削ってペダルを回すと、脳の疲労の回復は遅れる。
三歩進んで二歩下がるとはよく言ったもので、全体としては少しずつ回復すると信じて、焦らないことが大切だな。
細胞の性質として、膜蛋白質であっても、細胞質内あるいは分泌型蛋白質であっても、急激にそれらの発現が上がったり下がったりすることはない。
免疫系の細胞は例外で、これらが活性化すると短時間で性質が変化し、炎症を起こしたりもする。
中枢神経系の細胞の場合、情報伝達は機敏だが、その他のレスポンスは鈍い。なので、調子を崩すと戻るまで時間がかかる。
一方、血液脳関門によって隔てられた脳内に治療薬としての化合物を浸透させることは容易ではない。
また、高次脳機能をターゲットにした創薬においては、動物モデルどころか細胞モデルさえ十分に確立されているとは言い難い。
家庭にもよるだろうけれど、わが家の場合には私の体調が悪くても妻や子供たちが気遣ってくれることはあまりない。
その状況が、私自身をさらに追い込んでしまう。
家庭があれば、仕事を頑張ることができるだろと言う昭和の団塊親父がいた。
ストレートに言えば、妻の父親、つまり義父のことだ。
「そんなことはありませんよ」と私が答えたら、豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしていたな。
夫婦共働きが増えた現在の社会で子供を育てることが、どれだけ大変なことか。
さて、ロードバイクで走りながら思考の中を漂っていたことがあった。
そして、今朝、電車に乗って通勤している時に、「そういうことか」と気づいた。
大して高尚なことでもなく、本やネットには普通に転がっている考え方。
しかし、「学び」と「気づき」は違うものだな。
山のような書物を読み、難しい講釈を学ぶことよりも、自身の経験を通じて気づくことの方が大切な時がある。
今回もそれに該当するのだろう。
「粗にして細なるが故に均ならざるもの」
なぜか古風な表現になってしまった。
ググってもヒットしないので、私が勝手に考えた文章、あるいは記憶に残っていないだけで、何かの書物で読み流した文章なのだろうか。
難しいことではない。以下の条件をみたす存在は何かということを自問自答していた。
① 粗々(あらあら)しくて大雑把
② 細々(こまごま)しくて几帳面
③ ①と②が混ざって様々なもの
その答えは無数にあり、答える人の性格や教養、道徳や生き様を映し出すのだろう。
例えば、「それはコーヒーの種類です」と答えた人がいたとする。
正解だと思う。
「それは、サッカーのゲームです」と答えた人がいたとする。
正解だと思う。
「それは、男女関係です」と答えた人がいたとする。
正解だと思う。
あくまで私の主観だが、世の中に存在するほぼ全ての事象が、この条件に該当すると思う。
「それは、森羅万象です」という答えのパターンが最も多いかもしれないな。
別に難しいことでもないし、学ぶようなことでもない。
先日のサイクリングの最中、私は以前に見かけたエピソードを思い出した。
それは、フルカーボンの高級ロードバイクに乗ったレース志向のサイクリストが、最小限の装備で一人でトレーニングライドに出かけて、「リアディレイラー」が外れてしまった光景。サイクリストは「モゲる」と呼ぶ事態だな。
サイクリストでなくても想像が付くはずだが、リアディレイラーとは後輪のギヤにチェーンを誘導する変速機のこと。
鋼鉄製のロードバイクを除いて、この部品は「ハンガー」というアルミニウム製の小さなプレートによって自転車のフレームに固定されている。
リアディレイラーのハンガーは、落車や接触でリアディレイラーに衝撃が加わった時のために、あえて脆く作られている。
これは、リアディレイラーに衝撃がかかってフレームが破損する前に、ハンガーが曲がったり折れてくれるという仕組みだな。
しかし、メカニックによってロードバイクが頻繁に整備される実際のレーサーとは異なり、あくまで趣味としてレース志向な人たちは、頻繁に整備することはほとんどないことだろう。
チェーンどころか、ワイヤーさえ自分で交換することができないロードバイク乗りも珍しくない。
結果、ライドの最中にハンガーが折れてしまって走行不能になることがある。最悪の場合には、リアディレイラーがホイールに巻き込まれてスポークが折れる。
しかも、シマノの新型コンポーネントの場合には、ハンガーに加えて同じくらい薄いアームが追加されている。変速性は上がったのかもしれないが、破損のリスクは増えたと思う。
では、リアディレイラーのハンガーやアームを持ち歩いているロードバイク乗りがどれだけいるだろうか。
それらは、たった10グラムくらいの部品であって、リアディレイラーがモゲた後、チェーンを直結して走るよりもずっと楽なはずだ。
チェーン切りを使ったことがないロードバイク乗りだって多いだろうけれど。
あるいは、ハンガーが折れて走れなくなったロードバイク乗りを他のロードバイク乗りが助けるかどうか。
おそらく、仲間でない限り、そのままスルーして走り去ってしまうことだろう。
タイヤなどと違って、ディレイラーハンガーはフレームによって形状が異なるし、ユニバーサルハンガーを持っていたとしても気軽に貸すわけにもいかない。
美しい女性が助けを求めていたら助けるかもしれないが、道端でオッサンの自転車が壊れて困っていたところで助ける義理はないという人がほとんどだろう。
誰かを助けた後で、自分のバイクのハンガーが折れたら誰も助けてくれないし、見知らぬロードバイク乗りにスペアチューブを貸してやるロードバイク乗りよりも珍しいはずだ。
しかも、ディスクブレーキ対応のロードバイクの場合には、車軸がクイックリリースではなくてスルーアクスルで固定されているので、ユニバーサルハンガーを取り付けるスペースそのものがなかったりもする。
すると、自分でチェーンを短く切って繋げるか、それが無理なら保険のロードサービスやタクシーを利用するか、歩いて帰るか。
輪行袋を持ち歩いていなければ、電車を利用して帰ることは難しい。コンビニのゴミ袋とガムテープで何とかスルーした時代は終わったと思う。
レース志向のサイクリストに限ったことではないが、ロードバイクのスペックやウェアなどにこだわる人は多い。
ヨーロッパのサイクルレースや自転車漫画、国内のサイクルイベントに熱中したり、靴下の長さが気になったり、ヘルメットにこだわったり。
他方、もしものトラブルに備えた予備部品や工具については頓着しなかったりもするのがロードバイク乗りだと思う。
けれど、そのようなスタイルが間違っていると言えるのかというとそうでもなくて、もちろんだが人それぞれの自由なわけだ。
誰が何を言う立場でもない。
トラブルは確率論でもあって、乗り方やメンテナンスにもよる。トラブルのことばかり考えて、たくさんのツールを持ち歩くと、せっかくのロードバイクの軽快感やスピードが失われてしまう。
その一方で、ウェアやパワーメーター、サイクルレースや軽量化に全く関心がなく、スペアタイヤや輪行袋まで装備して走るサイクリストもいる。私もそうだな。
つまり、ロードバイクという趣味ひとつについて考えてみても、粗々しく省略する部分と、細々しく対応する部分があって、それらは人によって様々なんだ。
ここで気づいた「粗と細」のバランスを、演繹的に様々なことに当てはめていくと、それは人の生き方にも該当するのではないかと気づいた。
このバランスこそが、仕事や家庭でのペースを整える存在でもあり、逆に心を苦しめてしまう存在でもあるのだなと。
例えば、仕事。
全てにおいて細かく丁寧に処理することができればよいわけだが、人の処理能力には限界がある。
大雑把にこなす部分と神経質にこだわる部分が出てくるのは仕方がなくて、その配分は人によって違う。
精神的にタフで、しかも仕事が速くて優秀という人は、粗と細を巧みに切り換えていたりもする。
ラフに処理しても構わないと思ったら手を抜き、目的を達成するためのターゲットに集中する感じ。
ところが、組織においては、実務について「粗」だけれど、出世について「細」な人がイエスマンに徹し、より高みに上ったりすることが少なくない。
それが組織の病理を生む。
出世や社内政治には敏感だが、アイデアは日和見でスキルもない。責任や負担、ミスや指摘を回避することに全力を注いだり。
そのようなタイプがどうして出世するのか。
実際の能力は大したことがなくても、上司になって部下を働かせ、その手柄を掠め取ったとしても、それが管理者としてのマネジメント能力だとアピールすることができるからだろう。
そのような人が組織のトップに立つと悲劇だな。組織全体の舵取りを見誤り、諸共に傾くことがある。
一方で、出世について「粗」だけれど、職業人としての矜持について「細」な人もいる。
出世に細なタイプの上司と対立すると、パワハラや転職による人材流出の火種になってしまったりもする。
しかし、何かのきっかけで両者の波長が合えば、マーベリックな存在として、退職まで仕事に熱中することができたりもするのだろう。
その場合の上司は、無能な上司ではなくて、本来の意味においてマネジメントが有能な上司になる。
まあそれが組織というものだし、上司との相性は、能力や人事だけではなくて確率論的な運にも左右される。
例えば、夫婦仲。
遺伝子の多様性を追求する生命の本質を考えると理解しやすいテーマだが、人は自分と違ったタイプの異性に魅力を感じたりする。
そして、夫婦となり、子を産み育てる。
しかし、子育てのステージに入ると、お互いの「粗」と「細」のバランスが違っていることに違和感を覚え、ストレスをためたり、夫婦喧嘩に発展する。
男女の愛情は、生殖のために脳に刻まれたプログラムだったのではないかと感じはする。
子供が産まれて夫婦仲が冷めることも、すなわちリソースを枯渇させないためのプログラムではないかと思うことさえある。
「粗」と「細」のバランスが夫婦において違っていると、不満は蓄積し続ける。
どうしてここまで大切なことを見過ごすのだ、あるいは、どうしてそんなことにこだわるのかと。
それが発展して夫婦が離婚することはよくある。「性格の不一致」というものだな。
夫婦が連れ添って生き続けるためには、そのバランスをどこまで許容してやり過ごすことができるかという点が重要で、簡単にそれを実現することができれば苦労はない。
付かず離れずの何とやらという夫婦の姿は、「粗」に該当するのだろう。
「粗」と「細」の波が上手くマッチしている夫婦もいたりして、とても幸せそうに生活している印象はあるが、そのバランスを交際時に気付いていたのかどうか。
結婚して子育てに入ると、夫も妻も変わる。特に妻は変わることが多い。あらかじめ変化を想定して夫婦になるなんてことは難しいと私は思っていたが、なんてことはない。将来を察知するための分かりやすい指標がある。
義父母だ。
さらに話を個々の人生にまで広げてみる。
私のように五十路が見えてくると、職業人生の残りが見えてくる。やり残したことはたくさんあるし、家庭の事情で果たせなかった夢もある。
一方で、子供たちは進学や就職の段階を迎えようとしていて、私は職業人としてだけでなく、父親として生き続けるわけだ。
子育てにおいては、「粗」と「細」のバランスがとても難しい。どこまで子供たちについてこだわるか、あるいはこだわりを捨てるか。
中学受験はその最たるもので、「細」を求めるとキリがない。かといって、その先の子供の人生を考えると、あまりに「粗」を貫くことも難しい。
そのバランスについて夫婦の温度差が生じ、対立に繋がることも事実ではある。
その目標の先に楽園があるわけもなく、ただ淡々と生きて、死ぬ。それだけのこと。
なんだか虚しくも感じるし、実際に生き甲斐を探し続けているシニアも多い。
若者たちの「思春期」に例えて、中年たちが思い悩むステージを「思秋期」と呼ぶらしい。
数年前のバーンアウトの経験は、私の人生において決して幸せなことではなかったけれど、残りの生き方を考える上では重要なマイルストーンになったのだろう。
子育てに入る前の私は、学業や仕事について「細」だったが、プライベートに関してあまりに「粗」だった。
プライベートを大雑把にスキップしたからこそ、今があるのかもしれないが、結婚や食事、生活する街や趣味、友人や地域の繋がり、そういったことにこだわらなかった。
今まで粗にしてきたことを、人生が進んだ後で細にしようとしても難しい。最初からもっと真剣に考えて生きるべきだったと反省しても遅いわけだ。
実際に家族をもって生きていると、自分のペースだけでは生きられない。
自分としては「細」でありたい部分を「粗」として対応せざるをえないことがあり、家族としては「細」でありたい部分を「粗」として感じることもある。
そのジレンマが自らを追い込んでいくこともある。
では、これからをどのように生きるのか。70歳で死ぬとすれば、残りは20年と少ししかない。
1から20まで口ずさんで数えることは簡単だ。すぐに老いてしまう。
たった一回の人生だ。
すでに修正が難しい部分については「粗」にして受け流しながら、それでも「細」な生き方を大切にしようかなと思う。