武士の脇差と子供の教育
妻のストレスの一つが、時間と金を使うロードバイクという夫の趣味であることは以前から分かっていた。
その趣味のスタイルが大きく変わって、ロードバイクそのものへの熱意が減り、インドアサイクリングの割合が増えた。
それと共に、妻からの突っ込みが減った感がある。
特に、年末はホイールだウェアだと自分へのプレゼントを買っていた私が、ボーナスを全て子供たちの将来の学費に充てると決めたことに喜んでいた。
共働きの妻にどれくらいの収入があるのか私には関心がなくて、生活に関わる金は私が用意している。
私の収入に妻の収入が加算されるので、別に金に困っているわけでもない。
ある程度の期間で妻名義の銀行の口座が増えていくが、私の方が先に逝くだろうから気にしない。
一方、昨今では課金ゲームと表現されるくらいに受験産業が活発になっていて、その蓄えは重要だ。
これらの学校以外の学習の場は、強ち受験のためだけの塾という印象を感じられない。
これらの学習塾では、子供の頃から多くの文章を読み、語彙を覚え、計算能力を高めるトレーニングが行われている。
理系的な数式や図形を対象とした論理的思考、ならびに文系的な社会の仕組みや歴史。
しかも講師たちの授業がとても面白い。ふざけた笑いではなくて、知的好奇心を引き出して、問題が解決した時に頭に広がる充実感まで用意されている。
これらの学習は、高校や大学の受験だけでなく、社会人になった時のスキルにも繋がることだろう。
これらの学習プログラムが何をベースにして作られているのか。それは頭脳を使って働くインテリ層の頭の中だと思う。
ただ、インテリ層にも色々あって、理論だけで働く人は一握りだ。
もちろんだが社会での協調性、頭だけではない手先の器用さやセンス、新しい発想や技術を生み出すアイデア、あるいは多くの人たちを納得させるデザイン性。
そういったプラスアルファの能力については学校や家庭で身につけることだろう。
公立学校の初等教育にそれら全てを求めるのは過大な期待であって、集団での生活における道徳を身につけることが大切だ。
勉強以外のプラスアルファについて言えば、親による教育が子供に大きく影響するだろうし、親から受け継いだ能力や経済的な貧富も関係する。
私はあまり裕福な家庭の出身ではなくて、実家は大きな借金を抱えていた。
高校生くらいから家計の心配をしていたし、奨学金で食いつないだ生活はとても辛かった。
我が子たちに同じ苦しみを経験させたくないので、教育費の蓄えについては前向きだったりする。
また、五十路近くまで生きてきたオッサンの経験論としては、たった一つの専門分野ではなくて、複数のバックグラウンドを持つ職業人がとても強いと感じる。
武士で例えると、メインの大刀、つまり主差と共に脇差として携えることができる資格や技能があれば、それは生きる上での大きな力になる。
現実的に考えると、我が子たちに脇差を与えるためには専門学校や大学に2回くらい通う計算になる。
理容師の資格がある看護師がいれば病院で重宝されるかもしれない。
片言であっても三カ国語を話す小学校教師とか、自衛隊出身のシステムエンジニアとか、心理学で博士号を有している営業職とか、ネットマーケティングに精通した漁師とか。
今までの社会では変わった経歴だと判断されたことが、変わったことではなくて、むしろ有用だと判断される時代が来る気がする。いや、すでにその時代が来たと思う。
よくあるライフプランは、典型的な道程で計算した単純な見積に過ぎない。
何をもって典型的と考えるかは人それぞれだが、日本では昔も今も10代や20代の時点である程度の職業人生が決まってしまう。
30代や40代で一度でもつまづくと元に戻ることが難しい社会だ。
主差の他に脇差を持っている職業人たちは、スタートの段階で一歩遅れても、厳しい社会の中で強く生き抜く力があると思う。
どうしても特定の国家資格を得たくて大学受験で二浪したとする。別に恥じることはない。
ある程度の道程を進んでこれは違うとドロップアウトしたとする。それも結構。私だってドロップアウト組だ。
ただし、学位や免許、資格を取得してから方向転換すること。中途半端な投げ出しは良くない。
まあ、親の立場になってみると、我が子たちの背中を押すことができるのはそこまでだろう。
家や車に金をかけても、所詮は物だ。時が経てば朽ちてなくなる。
金や土地を残しても子孫が遊んだら意味がない。
子供の教育に金をかけて、孫の代まで正のサイクルが回ればいいかなと思う。
上手く行かなくても自分の子供たちだから諦めもつく。