2020/06/17

ロードバイク禅が待ち遠しい

夜に帰宅してドアを開けたら妻が激高という事態から一夜明けて、私は妻とコミュニケーションを交わさずに出勤し、そこから13時間ほど働いて帰宅。さすがに妻もやり過ぎたと思ったのか、私に気を遣ってくれている。


家庭も仕事も同じかもしれないが、状況は常に変化し続ける。

衝突と理解を繰り返しながら、適度な距離感を保ち、嬉しいことがあったり哀しいことがあったりしながら時が過ぎていくのだろう。

以前の妻ならば、癇癪を起してから数日くらいの間、ずっと怒っていたものだが、最近ではセルフコントロールができるようになってきたらしい。

翌日の朝は不機嫌だったが、夜になると怒りが収まった。

さすがに私が疲れ切っていることを察したのか、いつもと変わらない状態を維持するように努めてくれていたようだ。

しかしながら、私の方が妻の癇癪よりも深刻な状態かもしれない。

非常に興味深いと考察している場合ではないのだが、都内で働いた後、JR京葉線でマナーやモラルがなっていない千葉県民の姿を見るにつれて気持ちが重くなり、新浦安駅に到着してシンボルロードに出た瞬間に、強いめまいがやってくる。

興味深いことに、このめまいには再現性があって、新浦安の湿気を帯びたヌルっとした風を感じることでさらに不快感が増す。

夢と魔法の国がある浦安市だが、市民が啓蒙されて上品かというと、そうとは思えない。

とりわけ新浦安は、せっかちで我の強い人たちがたくさん住んでいて、駅や歩道を歩いていても自分の進路を優先し、避けようとしないことが多い。

自転車の通行について言えば、赤信号を守らない浦安新町の住民がどれだけ多いことか。

357号線の陸橋を越えて、浦安の元町の方に行くと、それはそれでストレスが溜まったりもする。常識が通じなさそうな人たちが酔っ払って歩いていたりもするし、私はあまり近づかないことにしている。

では、都内の23区はどうなのかというと、民度は似たり寄ったりかなと感じるし、むしろ危ない感じの人は都内の方が多い気がする。

けれど、夜の都内は、近郊から通う人たちが千葉県とか埼玉県とか神奈川県とかに帰ってしまったりもするので、想像以上に静かだ。

とにかく浦安は人が多い。多すぎる。近くの私立大学の学生たちの人波も苦痛に感じる。

ディズニーに観光客が押し寄せていない段階でさえ、この調子なのだから、先が思いやられる。

妻の実家が近いというストレスもあるが、それ以上にこの人口密度の高さが厳しい。気を休めたい時間帯に、どこを歩いても人がいて、深夜になっても人がいる。

嫌なんだ。私は、この街に住みたくなかった。

とはいえ、我慢に我慢を重ねて、早いもので10年が過ぎた。凄くないか。10年も我慢してきたんだ。

色々と考えてみると、人の幸せなんて、何が正解で、何が不正解なのかも分からない。

それにしても、このめまいは困った。都内で働いている時には何もなくて、普通なんだ。

新浦安駅で降りて、浦安市内を通行するだけで激しいストレスがやってくる。適応障害かというとその兆候かもしれないが、パニック障害とまでは言えないな。

ここまで浦安市のことが嫌いな市民がいると、浦安市長や市役所の人たちが悲しくなってしまうかもしれないが、そこまで劣悪な街とは思えない。

とても清潔で利便性が高く、市議会はアレかもしれないけれど、近い将来に財政赤字がやってくるとはいえ現段階では行政サービスが整っている。

新型コロナのストレスか? だとしたら都内の職場でもめまいがやってくるはずなんだ。

はっきりした原因は分からないけれど、この街は人が多すぎる。通勤も大変だ。

個人的な理由として、とにかく浦安市で生活したくないらしい。だからといって市川市や船橋市、千葉市で生活したいという気持ちも全くないが。

子供たちが私立中学に入学して、晴れて浦安を脱出して引っ越すまでは我慢を続けよう。

では、このようなめまいがやってきた時、普通の人ならばどうするのかというと、それは人それぞれだろう。

焦ってクリニックを受診して、薬を飲んで早く治したいといったパターンがあるかもしれないが、往々にして効かなかったり、離脱症状に苦しんだりもする。

そのような薬の作用機序について、英文の総説や原著論文を読めばすぐに分かることだ。

宗教的な意図がないことを明記した上で記すと、私の場合には「禅」を続けることで脳の調子を整えていたりもするわけで、スピンバイクの上で禅を行うよりも、ロードバイクの実走で禅を行った方が即効性がある。

最近では、ロードバイクがうつ病に効果があると言っているようなブログがあったりもするが、科学的にそれを証明することが難しいことだろう。

ロードバイク乗りの中にもメンタルな疾患に苦しんでいる人たちはいるわけで、本当に効果があるのなら、精神医学の分野でもっと本格的なコホート研究が展開されてしかるべきだ。

つまり、ロードバイクの乗り方が関係するのではないかと思う。

まさしく体力面でのトレーニングとしてロードバイクに乗る場合には、必死に負荷をかけてペダルを回すだろうから、それでメンタルが整うようには思えない。

何人かで一緒に走るグループライドも楽しいが、途中の会話が疲れる。

一人で黙々と自転車を漕いで陽の光と風を感じ、禅を行っている時が、私にとって最もリラックスすることができる。

最近では、宗教色を抜いた禅というコンセプトの「マインドフルネス」という響きの良い言葉が広がっていて、海外の大手企業でもマインドフルネスが取り入れられているそうだ。

一方、私が行っている禅がマインドフルネスと呼称しうるかというと、そんなに上品な横文字の瞑想ではなくて、ガチの禅だな。

私の母親代わりだった祖母が敬虔な曹洞宗の仏教徒だったので、私は幼い頃から禅を組んでいた。

私は特定の宗教を信仰しておらず、その予定もない。近くの神社でお参りし、寺に行って墓の前で手を合わせ、クリスマスを楽しむという典型的な無宗教の人だな。

しかし、禅とは何かという難しい講釈を聞いても理解しえない子供の段階で禅を始めていたので、それがとても身近な存在だった。

故郷の人たちがお世話になっていたお寺の住職は、とても頭の良い人で、全ての経を暗記して唱えていただけでなく、その町の人たちの名前や家族構成、家庭の状態まで記憶して相談に乗っていた。

カウンセラーや心療内科のドクターのような感じだったな。

お孫さんは国立大学の医学部にストレートで合格したそうだから、遺伝的に頭の良い人なのかもしれないな。

彼は、私が子供だった頃に壮年だったはずなのだが、年老いた感じがしない。一体、何歳なのだろう。

曹洞宗の中でも偉い人だという話で、普段は地味だったが、僧侶が集まる場所ではグレードが高そうな衣装を着ていて、たくさんの人たちから挨拶されていた。

彼は宗教家なのに説教の中に仏の話がほとんど出てこなくて、むしろ哲学者や科学者に近い感じもあったな。

禅についても押しつけがましい修行という感じではなくて、本当に自然だった。

マインドフルネスの教科書とかを読むと、ステレオタイプな感じで書かれているが、要は、リズムがある事象に集中するわけだ。

人が生きていてリズムがある事象といえば「呼吸」が手っ取り早い。

息を吸って、息を吐く。ただそれだけのこと。

リラックスした状態で、呼吸に集中していると、頭の中に色々なことが浮かんでくるわけだ。

嬉しいことや楽しいこともあるかもしれないが、その多くは悩みごとだと思う。

気に入らない上司や同僚の一言とか、締め切りが近い仕事とか、妻との口喧嘩とか、子育てとか、金のこととか。

そのような悩みごとが思考の中でループすることで、さらに脳が疲れてしまうわけだが、頭の中にそのような思考が浮かんできたら、あえて抵抗せずに、そのまま流しておく。

そして、しばらくしてから呼吸に集中する。すると、悩み事が少しずつ薄まって消えていく。

この繰り返し。

別に神も仏も関係なくて、悟りを開こうとするわけでもない。

おそらく、禅というものは、脳の生理学的な性質に基づく思考の制御なのではないかと思う。

一応、私は博士号をもっているので、それくらいのことは分かる。

例えば、経を唱えなくても、円周率の表を声に出して読むだけで、人の思考のループは停止する。

昔の人たちは経験論的に脳の性質に気づき、そこに神秘性を感じ、宗教に取り込んだのだろう。

一方で、禅について言えば、宗教色を抜いても機能しうる。だからこそ、キリスト教徒がマインドフルネスと称して禅をやったりもするのだろう。

禅という行為に、「こだわらない心」というような抽象的な概念だとか、「仏に近い状態」といった宗教的な解釈が挟まるから、話がややこしくなるんだろうな。たぶん。

ただ、私は生まれつき落ち着きがないので、座って禅を組むよりも、ペダルを漕ぎながら禅を組んだ方が楽だったりする。

呼吸に集中することが難しい、もしくは飽きてきた時にはペダリングに集中する。

同じケイデンスでペダルを回していると、頭の中に色々な思考が浮かんでくることが多くて、それが面倒になってしまう人がいるかもしれない。

そのような時には、あえてペダルの円運動をイメージすると気が散らなくて済む。

そうやって思考を偏らせずに様々なことを受け入れることで、ネガティブな思考のループが止まり、ストレスが減るという結果になり、それが「こだわらない心」と表現されたりもするのだろう。

私の場合には、生来からストレスを感じやすい人なので、どのように頭からストレスを抜くかということは、大げさな表現ではなくて人生のテーマの一つなわけだ。治療法もないようなデメリットを死ぬまで抱えて生きるわけだから。

ただ、物は考えようで、生きることをあまり深く考えずに過ごすよりも、色々と工夫しながら過ごすのもそれはそれで有意義だったりもする。

しかしながら、不思議なことがある。

ペダルを回しながら禅を組むのであれば、スピンバイクの方がずっと楽なんだ。本格的な座禅なんて、壁に向かって禅を組むくらいだから。

それなのに、スピンバイクに乗って禅を組むよりも、ロードバイクの実走に出かけて禅を組んだ方が、明らかに脳の疲労が減るのはどうしてなのだろう。

数年前にバーンアウトを経験して、そこから回復した時も、ロードバイクに何時間も乗って通勤するという方法をとった。

実際にロードバイクで通勤すると、前後左右から自動車やオートバイが走ってくるし、騒音もあって、なかなか集中することが難しいはずだ。

けれど、部屋の中で黙々とペダルを漕ぐよりも、風や光を感じながら走った方がデトックス感がある。加速感とか、様々な要素が関係するのだろうか。

スピンバイクでトレーニングを続ける時よりも、心拍数の増加やカロリーの消費が激しいからだろうか。もしくは、この効果は血糖値の低下や汗による脱水が関係するのだろうか。

それとも、日常の世界から少しだけ離れた場所に自らを置くことに関係するのだろうか。

ロードバイクのライドに出かけて、その理由を考えようとしても、禅を組んでしまうと思考が浮かび上がった後で消えてしまう。なので、理由がひらめかない。

たぶん、考える必要もないことなのだろう。

これからの季節は、スピンバイクよりもロードバイクに比重をかけていこうかなと思う。

室内トレーニングに飽きてきたし、様々な悩みやストレスが増えてきて、スピンバイク禅だけでは足りなくなってきた。

ロードバイクで走り回りながら禅を組んで、真っ黒に日焼けした頃には、浦安市内で感じるめまいも緩和されることだろう。