2020/06/14

北斗の拳に登場しそうなサイクリスト

先日の江戸川沿いのサイクリングでは人混みに苦労したけれど、面白いエピソードがいくつかあった。事実は小説よりも何とやらで、私はその光景を信じられない気持ちで眺めていた。


江戸川沿いの右岸を、海沿いの千葉県市川市から埼玉県春日部市まで走って折り返し、途中の流山橋で左岸に移ってひたすら海に向かってペダルを漕いでいた。

とはいえ、あまりに久しぶりのライド、重量級のクロモリロードバイク、さらには昼過ぎの人混みがあって、スピードなんて出せたものではない。

ちょうど、松戸市辺りを過ぎた頃だったろうか。歩道が二手に分かれて走りやすくなった。

その時、ドロップハンドルの右エンドに取り付けたミラーにサイクリストの人影が映った。

しかし、ミラーを二度見するような姿が映し出されたので、私は思考が混乱しながらも、本能的に左サイドに避けていた。

話は前後するが、それまで気性が荒かった私は、バーンアウトを経験して謙虚に生きるようになった。

謙虚にというか、自らの内面を押し隠して地味にという表現の方が正しいな。

もちろん、苦しんでいる時に助けてくださった数少ない人たちもいて、今でも感謝し続けている。

その人たちは、調子を落とすまでの段階で仲が良かったわけではなかったし、自ら積極的に仲間づくりに取り組んだ結果でもなかった。

彼らは、不器用ながらも地道に進むという、私の生き方の中で華やかではない部分を見かけて背中を押してくださった。

ならば残りの人生で、その部分を大切にしようと思った。

他方、多くの人たちにとって私の不調は他人事であって、まるで深い井戸に落ちたかのような絶望感を味わった。

プライベートな付き合いでは、家族でさえ頼りにならなかった。

市内に住む義実家はさらに冷たく、私の生き方においては意味のない存在であることも分かった。

これまで、あるいは、この先の人間関係を冷静に眺めることができた。

多くの人たちは自分自身のことが大切で、他者がどれだけ苦しんでいようと気にしないし、面倒になれば関係を切り捨てる。

人の思考は利己的にプログラムされていて、自らの楽しさや数々の欲のために他者を「利用」するのだろう。

最近の世の中では、夫婦であっても生じうる力学でもあるわけだ。結婚式での誓いの言葉なんて詭弁だな。

バーンアウトで苦しんだ頃からの人付き合いは公私ともに続く。新しい出会いもあることだろう。

しかし、バーンアウト後の世界では、人間関係をより冷酷に捉えることができている。

人生が上り調子の時に近づいてきた人たちは、下り調子に入れば去ってしまう。

それは生きる中でよくある話だ。最初から深く付き合わず、金や労力、時間を無駄にしないことが大切だな。

SNSのフォロワーやブログ友達なんて、さらに脆い存在だ。

こんな関係を心の拠り所にしたところで、私自身の生き方が豊かになるとは思えない。

寂しさや承認欲をネット上で充たしたいというだけの話だな。

ならば、最初から他者を頼りにせずに、孤独に生きた方がずっと楽だ。

地道に生きていれば、誰かがどこかで見ていてくれるものだ。

自分が疲れないための方法とは、他者への関心を可能な限り減らし、口数を減らし、受け流し、心を乱さないこと。

気持ちと表情をリンクさせず、黙っていれば何を考えているのかが伝わらないわけで、それでいいじゃないか。

困った時に助けてもらえるとか、寄り添ってもらえるとか、そんな甘い話なんて理想論だ。

人は一人で生まれ、一人で死ぬ。誰かを頼りにすること自体が違うのだなと。

すぐに離れていく人間関係なんて、最初から頼りにする必要もない。

その分、自分を信じればいい。

しかしながら、そのような厭世的な考えとは裏腹に、一つのパワーフレーズらしきものについても気が付いた。

それは「これは勉強になる」という言葉。

おそらく私だけかもしれないが、人間関係で何かのエピソードがあれば、頭で考えるよりも先に「これは勉強になる」と口に出して唱える。

もちろんだが、本当に勉強になる時もあって、例えば職場で優秀な人たちが切れ味鋭いアイデアを繰り出した時には、素直にそう感じる。

だが、生きていて心の底から「勉強になる」と感じることなんて少ないものだ。多くの場合には不満や苛立ちの方が多い。

それでも、先に「これは勉強になる」と唱えてしまうと、どうして勉強になるのかを考える契機が生まれる。

例えば、上司が当を得ていない指示を出してきたとする。明らかに明後日の方向だが、頓挫しても本人は責任を取らないことだろう。

これは勉強になる。その指示が明後日の方向であることを、上司のプライドを傷つけないように説明するという私自身の成長のチャンスが与えられたということだな...と思い込む。

例えば、通勤電車の中でコンビニ袋でカモフラージュした缶チューハイを飲み、柿ピーをむさぼり食っている薄毛のくたびれた中年男性が横に立っていたとする。

これも勉強になる。人生の疲弊と無常を全身で表現し、多くの人たちが持つ生きることの哀しみを中和させようとしている求道者の姿だ...と思い込む。

さらに、朝に目を覚まして妻がいきなりキレていたとする。

これも勉強になる。妻が蓄積していた不満や悩みを夫である私は察することができず、その報いを今になって反省し、苦悩として受け止める機会を与えられたのだ...と思い込む。

では、それらの思い込みというのは、私自身がストレスを回避するためだけの方法論なのかというと、そうでもないように感じる。

目に見えることや経験することは、私がその記憶を忘れてしまったら、全く意味がなくなるようなことがほとんどだ。

しかし、私個人のレベルでは大きな存在たりえて、時に脳にストレスが蓄積したり、自分自身を嫌悪してしまうことだってある。

加えて、物事には陰と陽があって、原因があって結果がある。それらは複雑なクロストークを交わしているわけで、時には「これは勉強になる」と前向きに仮定した後で、多面的に考えることも大切なのだろうなと思う。

サイクリング中の話に戻る。

ロードバイクのハンドルに取り付けているミラーから見えたサイクリストは、かなり屈強な体躯をした男性で、スキンヘッドのノーヘルメット、しかも上半身に何も着ていない。

サイクリストとしては、頭にヘルメットを被り、サイクルジャージを着て自転車に乗ることが普通だと思うのだが、かなり非典型的な所見だな。

私の右サイドを背後から来たサイクリストが追い抜いて行った。

横目で見つめた彼の自転車はとても不思議だった。

ベテランのサイクリストなら、BMXの自転車を初めて世に送り出したメーカーと言えば察すると思うが、そのメーカーのマウンテンバイク...にしてはタイヤが細い。

おそらく、32C...いや、もっと太い。

マウンテンバイク用のセミブロックタイヤか。オンロードでの走行のためにオフロードバイクをカスタムするのは粋だな。

しかも、フラットバーにプロファイルデザインのDHバーが取り付けられている。

これは、江戸川や荒川の河川敷での向い風を想定したカスタムだな。

スキンヘッドは空力抵抗というよりも個人のポリシーだな。

では、なぜに上半身が裸なのか。日焼け目的だろうか。

右サイドから私を追い抜いて行く時に、彼の自転車からEDMなのかラップなのか分かりかねる音楽が流れていた。

下半身はヒップホップやストリート系の人たちが履くようなパンツを身に着けていて、足元はスニーカー。

ベルトの上の幅15センチメートルくらいの肌にグルっとタトゥーが入っていて、両手両足にもタトゥーが認められた。

私が子供の頃、「北斗の拳」というコミックやアニメがあって、世紀末の破滅的な状況の中で筋肉隆々の男たちが闘うシーンが衝撃的だった。

あのような世界で生き抜いた架空のキャラクターたちは、現実だとこのような感じなのだろうなと思った。

まさにトムキャットが歌ったタフボーイの世界観だな。

彼の格好は派手だが、速い。もの凄く速い。

人通りがない道路に入ると、一気に加速していく。DHバーなんて使っていない。この馬力なら、たぶん飾り程度なのだろう。

彼は、重いマウンテンバイクを、まるで軽量なカーボンフレームのロードバイクのように振り回している。しかも巡航に入ると速度が落ちない。

いくらカスタムを施したマウンテンバイクといっても、ここまでのスピードで走ることができるのだろうか。

筋肉隆々の体躯で強引にペダルを踏んでいるというよりも、明らかにペダリングをマスターしているような巡航だ。

しかも、低速域のレンジのギアでケイデンスを上げているようにも思えず、普通に漕いでいるように見える。

けれど、ふくらはぎの筋肉が異様なくらいに盛り上がっている。

その瞬間、私は条件反射的に「これは勉強になる」とつぶやいていた。

はて、どうして、勉強になるのだろう?

それを考えることが勉強なのだな。

近づくと危ない気がしたので、30メートルくらいの車間距離をとりながら、じっと彼の姿を眺めていた。

彼は、とても気持ちよさそうに河川敷を走って行く。

私は男性に対して性的な意識を持つことはないわけだが、まるで彫刻のような筋肉が汗を帯び、陽の光を反射して輝いている姿が美しい。

絵になる男だな。

途中で歩行者やジョガーが道路を塞いでいたら、少しフラストレーションを感じながら徐行するのが普通のサイクリストかもしれないが、彼は軽くジャンプしながら道路脇の草むらをしばらく走って、再び道路に戻って加速していく。

あれだけ重い自転車に乗りながら横っ跳びなんて、どれだけのスキルと筋力があれば可能なのだろうか。

普通のロードバイク乗りなら着地した瞬間に落車だな。

さらに、彼は、バンクのような形をした土手を斜めに駆け上り、勢いをつけて跳んだ。

いや、飛んだ。

自転車で、高く、遠く。

やっと分かった。

彼はBMXライダーで、トレーニングとして河川敷を走っていたのだろう。

派手なタトゥーは、ストリートでナメられないためのお洒落だろうか。

たぶん、そうだな。

ロードバイクに乗っているサイクリストの場合には、「あるべき姿」というか、それなりの不文律というものがある。

フレームにも値段相応にスペックがあり、ホイールにもグレードがあり、コンポーネントにもグレードがある。

105よりもアルテグラが良くて、レース志向あるいは金の力で自己顕示したい中年親父たちはDURA-ACEの部品を買って取り付けたりもするわけだ。

初心者のロードバイク乗りがバックパックを背負って走ると蔑むわりに、相手がブルべに出場しているスーパーランドナーだったら「お、おう!」となったり。

ウェアについても、パールイズミやシマノといったジャージは途中段階で、サンボルトやラファのジャージを着てこそ格好が良いとか。

時には、派手なアニメ系の女性の絵が描かれたジャージを着て悦に浸っている中年親父の姿も見かけるが、それはそれで趣味の人だなという受け取られ方があったりもする。

まあ世間一般のロードバイク乗りのイメージとしては、メロンパンを頭に被って、股間がモッコリしたピチパンを履いて自転車で疾走するという感じだろう。

そして、私はそのスタイルが苦手になってきたので、あえてサイクルパンツの上にニッカーを履き、バックパックも背負って走っていたりもするわけだ。

ところが、そのような私の抵抗は、今、私の前を走っているサイクリストを見ると些細なものだなと感じた。

彼のバイクは、コンポやホイールはデフォルトで、タイヤやDHバーも金がかかっていないことだろう。

上半身は裸なので、サイクルウェアどころの話ではない。

そして、スキンヘッド、全身のタトゥー、オーディオから流れる音楽、さらには路肩の草むらを走ることで人混みやゲートをパスするようなトリッキーなライド。

サイクリストの固定観念なんてぶっ壊せばいいと言わんばかりだ。

しかも、その奔放なスタイルのサイクリストが走ってくると、道端の人たちは好奇の視線を彼に浴びせるわけだが、しばらくすると何もなかったかのように時間が流れる。

人々の無関心さは、この珍しい状況に限った話ではなくて、社会一般においてよくあることだ。

周りにいる多くの人たちは、本人が気にしているほどには関心を持っていないし、本人さえ気にしなければ、その状況は風や霧のように去ってしまう。

私は、どうしても彼に話しかけたくて、左岸の途中の信号待ちで停まっている彼に挨拶をしようと思ったのだが、あまりに格好が派手なので躊躇してしまった。

信号無視をするロードバイク乗りが問題になっている昨今、彼はとても律儀に信号を守っている。

押しても倒れなさそうな微動だにしないスタンディングスティルで。

しかも、挨拶の後に続く会話が思い浮かばない。

「こんにちは。ご主人、立派な筋肉ですね」と話しかけるのも違和感があるし、「そのタトゥー、凄いですね。私も背中に鯉を彫ってるんですよ」と嘘をつくわけにもいかない。

ただ、一つだけ分かったことがあった。

パンデミックによる外出自粛の時期においても、社会情勢を無視してサイクリングに出かけていた人たちは、この時期には真っ黒に日焼けしている。

ところが、彼は頭皮から背中まで日焼けせずに真っ白だった。

これまでずっとライドを我慢していて、久しぶりにサイクリングに出かけ、実際に心地よく走っていたことだろう。

昔も今も、人を見かけで判断することが多い世の中ではあるが、実際に会話してみると気さくな人かもしれない。

さらに意味のあることに気付いた。

私はいつも生き方の中で「守り」を重んじる癖があって、それは重装備のロードバイクやプロテクターを付けたライドのスタイルにも反映されている。

しかし、あまりにディフェンスを考えすぎると、視野や考え方が狭まってしまう。

スキンヘッドで上半身裸になって、自転車に乗って土手をジャンプするような彼のライディングスタイルを真似ることは、私には無理だ。

しかし、彼の走り方から「もっと自由に生きろよ」というアドバイスをもらった気がした。

彼が本当にBMXライダーであったなら、レースや競技で華麗に空を舞うシーンを眺めてみたいな。

やはり勉強になる。