電車通勤へのターンオーバー
子供たちが通う場所が開くということは、すなわち親が職場に向かうということだろう。6月1日ということでキリも良い。
しかし、天気は曇り空で小雨が舞っている。おそらく気圧も低いのだろう。何だか分からないが胃の下の辺りが重い。
いつもより脳に大きめの重力がかかっているかのようだ。まあそれは私だけではないのだろう。
今日の録は、愚痴から始まり、愚痴で終わる。
案の定、JR新浦安駅には緊急事態宣言時よりも多くの人が集まっている。
しばらく待って駅のホームにやってきた電車の中には、たくさんの千葉県民が乗っている。私も千葉県民にされてしまったので仕方がないが、この雰囲気は10年経っても慣れない。
千葉県民という響きがとても重く感じる。私は千葉県民にはなりたくなかった。職場が東京の23区にあるのに、どうして千葉県に住んで、毎日、東京に通わねばならんのだ。
若い頃、オーストラリアのフィリップ島を訪れたことがあった。夜の海辺でしばらく待っていると、多数のフェアリーペンギンたちが海から陸に上がってきて、そこから一生懸命に巣に向かって歩いて行く姿を眺めた。
餌が豊富な海と安全な陸上の巣の間を往復するペンギンたちの姿を見て、大変だなと感じはしたが、まさか自分がフィリップ島のペンギンのような人生を送ることになろうとは、その時は思ってもみなかった。
ただ、千葉県民たちの働き方を馬鹿にするわけでも、哀れに思うわけでもなくて、妻や義実家の圧しに負けて浦安に引っ越してきた私の判断が甘かったというだけの話だ。
それにしても、この外出自粛期間中にテレワークで十分に仕事がこなせることが分かった職種もあることだろう。
それでも、「5月一杯」というリミットを越えたら、さっさとテレワークを解除して、いつもの生活に戻るのか。
さすがにこれは厳しい。
あれだけスーパーや本屋で「ソーシャルディスタンス」を気にして距離を取って並んだのに、電車や駅では思いっきり密集しているぞ。なんてこった。
しかし、これは序の口だ。これから、大学生たちが学校に通い始める。
自宅の近くに、入試の難易度が底抜けに近い私立大学があるのだけれど、あの大学の学生が大挙して新浦安駅にやってくる。
東京大学の学生と比べると、むしろ高校生のような純朴な雰囲気があって嫌いではないのだが、中には近くのコンビニの入口で煙草を吸い、弁当や飲み物のゴミをそのままにして去ってしまうような若者がいたりもする。
そのような人たちに対しては、勉強以前の話として小学生レベルの道徳を教えた方がいいと思う。
私は常々思うのだけれど、いわゆるFランクの私立大学というのは、本当に維持する必要があるのだろうか。
それは、Fランクだと馬鹿にしているわけではなくて、そもそも大学という高等教育の場は、何のためにあるのかという点。
職業人生とは、必ずしも勉強だけで決まるわけではない。「生きる力」で決まると私なりには思う。
Fランクの大学に通う若者たちは、おそらく座学の勉強は苦手なのだろう。しかし、それが人として劣っていると言えるのか。そんなことはない。
入試の偏差値なんて、人の能力のごく一部しか測っていないと思う。
高校を出た後で専門的な教育を受けるのであれば、専門学校に通ってスキルを身に着けて、勉強が取り柄の人たちを生きる力で凌駕すればいいと思う。
ただ、Fランクの大学は、必ずしもその大学の財政だけで維持されているわけではなくて、補助金の形として国からの公的な予算が多分に投入されていたりもする。
大学の入学金や授業料だけで大学を維持しようとすれば、すぐに経営が破綻して潰れることだろう。しかし、国からの補助金があるからこそ、偏差値が底を割ってしまっている状態で学生が楽に入試を通過してしまう。
そういった大学についても国が金を費やしているわけだが、当の大学生たちはそれが当然だと思っているのだろうか。補助金のことさえ知らないかもしれない。
本来ならば、偏差値がFランクになった時点で、私立大学同士の統廃合などを進める必要があるのではないか。
大学は義務教育ではないので、楽に入学できてしまう大学をなくして、ハードルを上げた方がいい。
最近では、アジアからの留学生の比率があまりに多い私立大学が問題になった。
大学経営を考えると、日本で学位を取りたい留学生を受け入れることはメリットがある。国も留学を手厚く支援している。
確かに優秀な学生もいるようだが、途中で所在不明になることもある。
一方で、国立大学については独立行政法人化のタイミングで国からの予算が大幅に削られている。大学の授業料も値上がりしているし、大学教員の補充さえ難しくなっている。
これは、一体、どうしたことか。
育った家庭の所得の高低に関わらず、学業が優秀な若者たちに高等教育を授け、社会の頭脳として育成する。
それは、国家の生き残りをかけた重要な戦略の一つだ。
だからこそ、多くの国家では、日本なんて比べ物にならないくらいの多額の奨学金を含めて、学力が優秀な学生に税金を投入する。
長い目で見れば、その投資が社会に還元されることが多いからだ。
けれど、知的労働を担う若者たちへの支援はあまりに少なく、色々な都合があって公的資金が分散してしまう。
Fランクに限らず、親の金で酒を飲んで勉強もせずにハッピーに過ごしている若者は多く、テニスラケットだエレキギターだと、勉強以外の道具を背負って大学に通う人たちは珍しくない。
学生ならば本を読めと言いたい。男なのにピアスとか、パーマでクルクルになった茶色の長髪とか。
本人はお洒落だと思っているのかもしれないが、就活になると一斉に爽やかヘアのリクルートスーツ。そこからはステレオタイプな以下略。
この時点で、私は昭和の空気が漂う団塊ジュニアの中年親父なのだが、自宅の近くの私立大学のようにスケートボードに乗って大学に通うような若者には愕然とする。
ロードバイクに乗って職場に通っていた私が言うのはおこがましいが、一体、このスケートボードの若者たちは、何のために大学に通っているのか。
歩道をスケートボードで移動することは、街を通行する市民に対して危険であり、失礼だ。
高校程度の面積の小さな大学で、スケボーで「個」をアピールしても仕方がないだろう。
大学卒という職業人生のチケットがほしいのだろうか。厳しいようだが、チケットには種類がある。
今のうちに地道に勉強して、何らかの資格をとっておかないと、就職の前や後で厳しいと思う。
スケートボードで遊んでいる余裕はないはずだ。
ただ、私個人の考えは、もっと現実的で、偏差値が底を割った私立大学については補助金を容赦なく停止し、その分を国立大学の運営に充てるべきだと考えている。
また、大学院に通う若者たちの多くは、経済的に困窮した状態で研究に励んでいる。服や食べ物まで節約して、書籍や学会旅費を捻出している。
本来ならば、そのような若者たちのために公費を投入しないと、社会を支える頭脳が足りなくなってしまう。
スケートボードで大学に通うような若者に以下略。
大学という存在が何のためにあるのか、それを考えればすぐに分かる。
大学は高等教育の場だ。もっと分かりやすく言えば勉強する場だ。
義務教育なら話は別だが、勉強が嫌いな若者に単位で縛り付けて勉強をさせる必要はない。
他に生きる力を磨く選択や時間があってもいいじゃないかと思う。
いけないな、久しぶりに大嫌いな長時間の電車通勤がやってきて、私も相当に気が立っているらしい。
そのようなことは、本人たちが考え、人生をもって知ることだ。
新しい生活様式なるものが始まって、電車の中で気が付くのは、その人の品性がマスクによって残酷なまでに表現されてしまうことかもしれないな。
ここまで感染症が深刻化しているのに、未だにマスクを付けずに電車に乗ってくる人たちを見かけて、人間の考え方は多様性があるのだなと思う。
電車で通勤していると、たまにイラっとする人が近くにいたりもするのだが、行動を見なくてもマスクを付けているか否かである程度の確度で分かってしまう。
特に男性についてはよく分かる。頑固そうなシニア、品があるとは思えない中年、きちんとネクタイを締めているけれど真面目に会話するとたぶんすれ違う若手のサラリーマン、そして以前はパーリー何とかと呼称されそうな若者たち。
マスクの着用は、自分がウイルスに感染しないためだけではなくて、他者に感染を広げないための手段でもある。
すでにマスクが流通している時期に、マスクを付けずに電車に乗ってくるということは、その人が社会に対して配慮するだけの常識やマナーがないですよとアピールしているような形になりはしないか。
もちろん、外出時に忘れてしまったというケースもあるだろうけれど、あえてマスクを付けないのであれば、分かりやすいリトマス試験紙のようだ。
日本の「恥の文化」が浸透していない人たちもいるのだなと。
電車通勤をしていると、そのような人に苛立ちを覚える。
ああ、やはり浦安市に引っ越して千葉都民になったことは、私の人生の最大の失敗だった。私は電車に乗りたくない。
6月に入って一気に通勤客が増えたわけだが、ここからのステップとしては、次に学生たちが電車で通うようになり、反対方向からは全国からディズニー客が押し寄せてくる。
考えることさえ憂鬱になるターンオーバーだ。
そうだ、このような時は、これから生じるであろう良いことも考えよう。そう、目は前に向かって付いているのだから、前を見よう....
良いこと、なんもねぇ。
ネットスラングの「ちくわしかもってねぇ」的な脱力感がやってくる。
それにしても、この天気は、憂鬱な気分をさらに憂鬱にしてくれるな。
人によるのかもしれないが、私の場合には、その日の気分や体調が湿気に左右される。
だからと言って、「ああ、俺はダメ人間だ」と感じる必要はなくて、暑い日には汗が出て、寒い日には手がかじかむのと同じように、湿気があると脳が疲れる。それだけのこと。
ただ、苦痛を感じる部位が脳なのでダメージが大きいな。
大学や独身時代は、歩いて通うことができる範囲に学校や職場があった。というか、わざわざ近場に住んでいた。
それなのに、こんなに時間がかかる浦安なんて街に住むようになって、なぜにわざわざイライラしながら通勤せねばならんのだ。
ツイッターの世界と、都心の電車通勤の世界はとても良く似ている。
両者に共通するのは、匿名化による「個」の浮動だと思う。互いに誰なのかを認識しえない関係において、人は恥を忘れる。
第三者から見れば見っともない行動。例えばスマホで動画を流しながら周りを気にせずに歩いたり、電車の座席で隣の人に対してスペースを主張したり、最悪なケースとしては在来線の中で缶チューハイと柿ピーを楽しむとか。
自分が誰なのかが他者から認識されない場では、人は恥を忘れ、自分のことだけを考えて行動する。
そのような人たちに対してイラつくだけ時間と気力の無駄だということが分かっているのに、とても気になって心を消耗してしまう。
電車の窓から海を眺め、あと何年、この浦安という街で耐え忍びながら生きて行かなくてはならないのかと、カウントダウンを始める。このような時に限って、タイマーは遅々として進まない。
嫌なんだ。浦安に住むことが。この街が、本当に住みやすいか? ベッドタウンなんて、どこもこのような感じだと思うけれど。
ヘトヘトになりながら職場に到着。
そこからは楽しい時間が始まる。本当にリラックスすることができるな。通勤の疲れが少しずつ減っていく。
そして、帰りの電車通勤でヘトヘトに疲れて自宅に到着。
これから...学生の人混みが増えて....ディズニー客が押し寄せて....さらに修学旅行生までがやってきたりもするわけだ。
大丈夫なのだろうか。私は耐えることができるのだろうか。
そんなことを言っていても、社会という大波は私を飲み込んでいく。
こんなライフスタイルを選択した私自身が無謀だったというわけだな。
自宅に帰って、通勤の辛さを妻に話す。相変わらず会話は噛み合わない。妻のように電車通勤を苦にしないくらいのタフネスがほしい。
「明日も早いだろうから、早く寝たらどうだい?」と、妻に気遣いの言葉をかける夫を演じる。実は会話を止めて、一人の時間を過ごしたいだけだ。
間違いなく脳が重いのだが、このような気分になっているのは私だけではないことだろう。
そんな時は、風呂に入って、冷たい飲み物を飲んで、余計なことを考えずに、さっさと寝てしまうことが一番だ。
重い気分をいくら引っ張ったところで、悟りもなければ達観もない。
社会が一気に動き出したので、脳には少なからず負荷がかかっている。ここで大切なことは、脳に無理をさせないこと。
無理に頑張ってしまうと、元気の前借りになってしまい、返済が大変になる。
週末にロードバイクでどこを走ろうかと思いめぐらせて、ついでに通販で何を買おうかと考えて、気が付くと寝落ちするくらいでちょうどいい。
よし、寝よう。