新・東京ラプソディーを聴きながら
早速、ロードバイクのライドに出かけよう....いや、妻のボルテージが上がって怒鳴り声を上げている。爆発寸前だ。急遽、実走を中止した。
上の子供が通っている学習塾は、早速、授業を再開した。
いつもながら妻の切り替えは素晴らしく速くて、家庭のシステムが緊急事態から平時へ移行されていく。この移行は、エゴイスティックなまでに強烈で、私の心拍数を上げてくれる。
長らく続いた休校によって、上の子供はすっかり夜型になってしまい、日付が変わってもタブレットで遊んでいる。まあそういった経験も有りだろうと父親の私は暢気に構えていたのだが、妻が喝を入れた形だな。
休校が解除されたといっても、給食が始まるのは2週間後だ。それまでは、弁当を用意して子供たちに持たせる必要がある。妻のボルテージが上がってきている理由の一つだな。
この対応においても、学校現場は旧態依然としたシングルインカムのライフスタイルをベースとして対応しているのだなと感じる。
子供たちが学校に慣れていないとはいえ、保護者にとっては多くの職場で平時に近い状態の仕事が始まる。
スケジュールが遅れに遅れて大変だ。
その状況で、共働きの夫婦は、毎日、弁当を作って子供たちを学校や児童育成クラブに通わせるのか。
浦安市の教育総務部は、子供たちのことを考えてくれてはいるが、保護者の苦労まで考えてくれているとは思えない時がある。
仕出し弁当の業者手配とか、そういった気の利いたことができないのだろうか。
市役所といっても、担当課の中にいるのは小中学校から出向した教師が多いそうだから、たぶん無理なのだろうな。
ということで、気が立っている妻は弁当の食材の調達のために買物に行くから、私が下の子供を外に連れ出して面倒をみるように要請があった。
やはり、久しぶりのロードバイクでの実走は困難だった。拒否すると家庭が荒れるし、私は父親なので子供の面倒を見る必要がある。
私がママチャリに乗り、下の子供も自分の自転車に乗り、浦安市の新町エリアを一周するというサイクリングに出かける。
公園の遊具は使用禁止になっているし、親子ともに散歩に飽きた。うちの子供たちはサイクリングが好きなので助かる。
しかし、新町エリアの歩道を自転車で通行していて、信号待ちで車道を眺めた時、ロードバイクのライドに出かけるのは止めておいて正解だったかなと感じた。
神経質な私の感覚が、何か危険な雰囲気を察知している。マイカーや商用車を含めて、自動車を運転している人たちの感情が尖っていて、何だかイライラしている感じがある。
自動車の流れに余裕が感じられなくて、とても荒い。社会の状態が変わる状況だから無理もない。
このような時に車道に出てロードバイクで走ると、交差点などを通過する時に巻き込まれる気がする。
直線で背後から引っかけられただけでも大怪我だ。もう少し社会が落ち着くまでライドを控えるか、人々が眠っているような早朝に走った方がいいと思った。
子供を連れてシンボルロードを進み、海沿いの総合公園の前まで行くと、公園前の路上駐車の取り締まりのために何人もの警察官たちが立っていた。
この状況で路駐する猛者はいないようで、一時期は車線を埋めていた自動車も見当たらない。
総合公園にも飽きた私たちは、そこから高洲地区に向かってペダルを漕ぎ、高洲海浜公園までやってきた。
ここにはちょっとした丘があって、見晴らしの良い展望台に登ることができる。
わが子と一緒に丘の階段を上っていたら、一人の女性が少し前を歩いていた。白を基調としたシャツと黒っぽいタイトなジーンズ、そしてサンダル。
後ろ姿からは年齢層は分からないが、とても足が長くてスレンダーな人だ。
妻子ある身で女性の後ろ姿を眺めるなんて、これではまるで欲求不満の中年親父ではないかと自戒しつつ、五十路前の父親なんてどの家庭でも欲求不満だろとダメ人間ぶりを認めたりもする。
下の子供を連れて丘の上までたどり着いたのだが、展望台は閉鎖されている。
その場所でアンパンマンのテントを張っている親子連れを見かけて、あまりの趣のなさに閉口したが、長引く外出自粛で常識のリミッターが外れてしまったのだろう。新町によくいるタイプだな。
子供と一緒に、丘の頂上で円形に設置されているベンチに腰掛けて、海を眺める。
すると、私たちよりも海沿いのベンチに、先ほどの女性が一人で座っていた。
横顔しか見えないが、とても美しい。
大学生のように見えて、社会人のようにも見えて、新町の世帯の奥さんのようにも見える。不思議だな。
彼女は、肩くらいの髪を束ねて、眼を閉じて、海からの風を感じていた。
サンダルを脱いで素足になり、ベンチの上で膝を曲げた姿は、胡坐をかかないヨガの瞑想のようだ。
リラックスしている雰囲気が私の方まで伝わってくる。
陽の光を反射して輝く海を背景に、女性の姿が調和していて、あまりの美しさに呆然としてしまった。
欲求不満の中年親父の煩悩ではなくて、美術館で絵画を眺めているような美しさ。
まあ、このような時、公園で小さな子供を連れている父親というのは、周りから見るとすでに女性への関心を失い、家族のために自らを捧げているように見えるかもしれない。
実際には、どうなのだろう。父親になっても変わらない人もいる。
私の場合には感情が枯渇した頃から欲求が減ってしまった。
そういえば、公園までの道すがら、奥さんに内緒でキャバクラに通って嬢とLINEを交換したと喜んでいた新町の父親を見かけ以下省略。
ただ、この瞬間の私としては、性的なことだとか、このような人と結婚していればどのような人生なのだろうとか、そういった思考ではなくて、純粋に美しいと感じる光景を眺めている。
とても爽やかな美しさだ。眺めている私の心の中まで浄化されていく。
この状態のことを、専門用語で「目の保養」と呼ぶのだろう。
不思議なことだけれど、今までの人生の中で、よく似た光景を眺めたことがある気がする。そう、20代くらいの若い頃だ。
しかし、あれから20年以上の時間が経ち、記憶に鍵がかかって思い出すことができない。
いや、その鍵をかけたのは私自身なんだ。場所も分かる。横浜の港の近くの景色の良い公園だ。
これはまずい、自動ドアのように記憶の扉が開いていく。
中年親父の若き日の淡い失恋の思い出なんて、そっと本人の心の中に閉じ込めておくもんだ。真横に座っている我が子の顔を見て、必死に扉を閉じる。
よし、これで大丈夫だ。
意識がある状態の時、私は頭の中で記憶した音楽を流すことがあって、それは他の人でもよくあることだろう。
さて、この時間はどんな選曲をしようか..山下達郎さんの「潮騒」がいいかな...この曲のYouTubeの動画によく似た女性が映っていたし...とも思ったが、この曲はラブソングだ。
私はそういった気持ちで眺めているわけではないし、それではただの欲求不満の中年親父ではないか。
すると、山下達郎さんの「新・東京ラプソディー」が自然と頭の中で流れてきた。歌詞と光景がマッチしていないが、落ち着かない社会情勢と前向きな感情のコントラストを表現しているようでいいな。
新・東京ラプソディーの「新」という文字があるのはなぜかというと、藤山一郎さんの作品に「東京ラプソディー」という名曲があって、新・東京ラプソディーのサビの部分に合わせるようなさりげないコーラスで東京ラプソディーの歌詞が歌われていたりもする。
山下達郎さんと藤山一郎さんの関係については知らない。
そういえば、新・東京ラプソディーのアルバムのジャケットに映っている自転車は、緑色ではなくて白色のフラットバーロードだ。
フレームの素材は、この当時に主流だったクロモリ、ホイールは手組だな。タイヤは21Cくらいか。コンポはシマノ....と思いきやカンパかもしれない。
美しい光景の前で固まりながら、頭の中はとてもリラックスしていて、途中から自転車のことを考え始めた。
だが、良き気分を遮るかのように周りの親子連れが多くて騒がしい。ブレイブボードに座って、丘の遊歩道を滑降しているような子供までいる。
これではリラックスできないと思いきや、その女性は何ら気にすることなく、たまに海を眺め、再び瞑想に入っている。
そして、何かに気付いたように眼を開けて、両手を大きく伸ばした後、再び階段を下りて高洲地区の街の方へ歩いて行った。
歩き方まで神々しい。何だろうな、ドラマや映画で見かけるようなシーンだ。
海を見て、風を感じ、リラックスした後で家に戻るという何気ない行動を、ここまで自然体で美しくこなすことができるとは。
どう表現すればいいのか....そう、一言で表現すれば「粋」な姿だな。
カフェで一人で座っている姿がやけに粋な中年女性とか、海沿いで釣竿を立てて座っている姿が粋な高齢の男性を見かけたりするが、その世界。
しかし、その女性は公園の近くの病院に向けて歩いていった。療養中なのだろうかと、少し心配になった。
その後、自転車で新町を走りながら、「なあ、一人でベンチに座っていた、お姉さん、すごく素敵だったよね」と私は子供に尋ねた。
しかし、「え? 女の人が一人で? 見なかったよ」という子供の返事があった。
私は絶句した。
いや、そんなはずはない。うちの子供だって同じ方向を眺めていた。
もしかすると、ストレスをかかえた私の頭の中で、なにか幻想めいた光景を作り出してしまったのか。いや、これまでの私にその兆候はなかったはずだ。
新町を外回りで自転車で走っていたら、先ほどの女性が歩いていて、マンションの中に入って行った。
なんだ、私が見た光景は幻想ではなくて、現実だったらしい。
そうだな、小学生のわが子にとっては、海を眺めている時に周りの人のことまで観察しないことだろう。
子供を連れて何食わぬ顔で自宅に戻る。
上の子供は学習塾に行き、夫と下の子供は外出という時間で、妻は一人でリラックスして落ち着いたらしい。
妻から感謝されて気を良くした私は、自室に入ってロードバイクをメンテナンススタンドに取り付ける。
そして、パソコンから新・東京ラプソディーを流して、口ずさむ。
ホイールを外して、25Cから28Cのタイヤに換装しようかなと思った。
実走ができない時期には、ロードバイクに触れることさえためらったが、ようやく外を走ることができる日がやってきた。
「街へ出るのさ、あふれる光の中へ」という歌詞が最もいいな。コーラが飲みたくなる。
コンチネンタルの4-seasonの28Cタイヤは、23Cと銘打って24Cを世に出すようなドイツ職人には珍しく、幅がミリ単位で28Cだった。
いつもはホイールに嵌めることに難儀する硬いタイヤだが、28Cくらいになれば余裕だな。
さあ、以前からその迫力に圧倒されていた「Race 28 Wide」というチューブを取り出すことにした。
Race 28 Wideが25Cから32Cに対応していて、SV15が18Cから28Cまで対応しているので、どちらのチューブも28Cのタイヤに取り付けることができる。
正常な感覚を有しているロードバイク乗りならば、間違いなくSV15を選択することだろう。
しかし、Race 28 Wideを経験しないままロードバイク人生が終わるのも、それはそれで何だか気になるので、早速、このチューブを試してみることにした。
箱を開けると、今まで目にしたことがないような幅広の厚いチューブが出てきた。分かりやすく表現するのなら、ママチャリ用のチューブのような感じ。
もっと細かく表現すれば、空気を入れると23Cのチューブラータイヤくらいの太さになるチューブだな。
これ、本当に25Cのタイヤに入るのか?
今まで難なくタイヤに嵌めていたチューブと違って、Race 28 Wideはコツが必要だな。太いチューブがすぐにタイヤからはみ出てしまう。
ああでもない、こうでもないと楽しみながら、ようやく前後のホイールに28Cのタイヤが収まった。
シマノのBR-8000というアルテグラのキャリパーブレーキは、28Cのタイヤにも対応しているという情報があったので油断していたが、ホイールをフレームに取り付ける際、キャリパーを全開にしても、ブレーキシューとタイヤがこすれながら入っていく。
取り付けた後も、タイヤとキャリパーブレーキの隙間が狭い。おそらく、旧式のシマノのコンポーネントの場合にはクリアランスが足りなくなることだろう。
ホリゾンタルのクロモリフレームなので、フロントフォークにもシートチューブにもタイヤが干渉しないので、走行においては問題がなさそうだ。
ロードバイクに28Cのタイヤを合わせてみると、シクロクロスバイクのような重厚な雰囲気がある。
クロスバイクのような感じもなくて、このタフなシルエットはなかなか格好がいい。
歩道に乗り上げてもビクともしない感じがあって、ブルべのレースに出場する人たちが28Cのタイヤを使い始めたという理由も分かる。
できれば、休園中のディズニーの周りを走っておこうか。