恥の文化とツイッターの合理
メッセージの発信元の情報開示についての法整備等が検討されていて、それも大切なことだが、そもそもの原因を生み出すサービスを提供しているツイッター社に責任はないのだろうか。
ツイッターは自然災害での情報伝達や行政からの各種のアナウンスにおいては便利だし、平和に使っている人たちも多い。
しかし、このツールは依存性が高く、ジャンルの区分が明確ではない割にユーザーが多くなりすぎた。
かといって、ツイッターは幅広い分野の産業、あるいは政治や行政から一般の人たちに情報を伝える手段として社会に浸透してしまっている。
個人レベルの楽しみや心の拠り所、さらには憂さ晴らしやネット依存の場としても。
それがツイッターだと言われればそれまでだが、もっとトラブルを避けるためのルール作りに力を入れた方が良かったのかもしれないし、それをやるとユーザーが増えなかったかもしれないし、難しいところだな。
とりわけ、AIによる識別技術が発達しているのに、ツイッターでは罵詈雑言の発信について野放しに近い。あまり制限してしまうとユーザーが離れてしまうのではないかとか、企業としては色々と考えてしまうのだろう。
しかしながら、これがネットでのツールではなくて、自動車や電化製品であれば、リコールや改善命令に相当するのではないかと思えるほどに、ツイッターというツールには問題を感じる。
公的機関や民間企業への批判も酷いものだが、政治家や芸能人、さらには「公人」と呼ばれる人たちへのネットユーザーの誹謗中傷は度を超えている。
下劣なツイートは人の心の闇を感じるし、人を自殺に追い込むことさえある。
ツイッター社は、この現状を反省して対応すべきだが、日本の支社が動くかどうか。おそらく海外の本社が認めないことだろう。
このツールを運営する企業としては、ツイッターは営利目的のビジネスだ。
欧米だけではないが、海外では特にその傾向が強くて、いくら辛い思いをする人が出ても、利益が出る方向に舵を切る。それが商売の現実でもある。
併せて、ここまでツイッターで罵詈雑言が飛び交うのは日本のユーザーくらいのものではないか。
ツイッターの本社がある米国の人たちのツイートを英語で読んでみれば分かるのだが、本名のアカウントがたくさんあるし、爽やかなつぶやきも見かける。
では、実名あるいは実名に近いフェイスブックを使っている日本人はどのようなメッセージを発信しているのかというと、実に爽やかだったり、意識が高かったりする。
浦安市内で生活していると、ネットユーザーのリアルな生活と、フェイスブックの内容と、ツイッターの内容を見比べることができたりする。
実名のフェイスブックでは明るく穏やかな体なのに、匿名のツイッターでは激しい内容が認められたりする。
フェイスブックとツイッターという関係だけではなくて、ツイッター上でのメインアカウントとサブアカウントの違いを比べてみることも面白い。
同じ人なのに、別アカウントでは霧のような毒を吐きまくっていたりもする。
このような日本人のツイッタラーの二面性あるいは多面性はとても興味深い。
さらに奥深く感じるのは、市内ではないが、御年70歳を越えたような日本人のネットユーザーが、ツイッターを器用に使いこなして政治的なアジテーションとも受け取れるツイートを連発していることだ。
一人や二人ではない。ものすごい数のユーザーがいる。職場のコンプライアンスから解放され、社会に対する不満が噴き出したのか。
元気で素晴らしい老後だな。真似をする気は毛頭ない。
古臭い話かもしれないが、人の我や欲が渦巻く混沌としたツイッターの海を眺めていると、ルース・ベネディクトの「菊と刀」で紹介された日本の「恥の文化」を思い出す。
その本が出版されたのは第二次世界大戦の頃だったはずだが、恥の文化は何も変わっていない気がする。
新型コロナウイルス感染症の三密対策やマスクの徹底等においては、恥の文化に近い、あるいは恥の文化そのものという同調心理が働いたとも思える。
この文化が、海外から「日本の奇跡」と呼ばれる状況に繋がったと考えれば、強ちデメリットだけではないな。
また、欧米人が日本の対応を不可解だと感じる理由も分かる。都市封鎖もせずに国民が外出を自粛し、店舗が休業したのはなぜだろうかと。
まあ、人によっては鬱陶しく感じることだろうけれど。
ベネディクト先生いわく、信仰心のある英米人は神との対話の中で行動を決定する傾向があり、「罪を基調とした文化」が成立しているらしい。
米国のツイッターユーザーたちのツイートにおいては、確かにその思考の基準に罪の文化を感じることがある。
神の存在を信じるか否かは人それぞれだとしても、ある程度のところでリミットが効いている感じがしなくはない。
自分が神から見て正しいことをやっているのだから、ツイッター上で匿名のアカウントを使う必要もないということか。
欧米人は個を大切にし、そこに存在意義を感じるようだ。あえて匿名でメッセージを発信する意味もないという道理なのだろう。
そういえば、食事の前に神に祈ったり、日曜日に礼拝する姿は、日本ではあまり見かけない。
神を信じるか否かは別として、欧米のように子供の頃から信仰を続けていれば、思考における柱が形成されているのだろうか。
罪の文化の割に犯罪が多い気もするが、それは機会があれば考えたい。
もとい、欧米のユーザーからは、他者から見ても気持ちが穏やかになったり、批判であっても言葉遣いは上品だったり、教訓になるような美しい文章だったり、そのようなツイートが多かったりする。
立派なツイートには他のユーザーから素直な賞賛が返ってくる。これがツイッターの本来の形なのだろう。
一方、日本のツイッタラーはどうなのか。内向的なツイート、あるいは愚痴や不満が多い。
他のユーザーからのリツイートやいいねは、そのユーザーを賞賛しているという形よりも、同じ不満を有した人への共感の形に近いかもしれないな。
ベネディクト先生が見た日本の場合はどうなのかというと、「恥を基調とした文化」が成立しているそうだ。
頭の回転が速い人ならば、この時点で、どうして日本人ユーザーのツイッターで罵詈雑言や皮肉、中傷が飛ぶのかを理解しうることだろう。
恥の文化とは何かというと、要は「他者からの目」を基準として行動を決定する文化という意味だ。
他者から見て恥だと思える行動を慎む。主体は自分というよりも、その社会という形だな。
実名であれば、決して発信することがないような内容を、匿名のツイッターであれば気兼ねせず発信してしまうのだろう。
そこには明確に個が存在するが、匿名であれば現実の個と切り離され、恥の文化から解放される。
ブログの場合も同じ理屈で、実際に私も「録観」という僧侶のようなハンドルネームを使っている。
ただし、ブログの場合には情報量が多いので、ネット上の個と現実世界の個を完全に切り離すことは難しい。
私のことを知っている人ならば、「ああ、なるほど」と思うことだろう。別に知られたところで恥ずかしくもない。その程度でネットを使うと気が楽だ。
しかし、ツイッターはどうなのか。このサービスが駄目だと私は思わない。むしろ、心の中が露出する優れたツールだ。
このサービスは、短文と数枚の写真をアップロードすることができる簡易ブログにすぎないが、膨大な数のネットユーザー同士を繋げて、瞬時に情報を伝えうるという点が受け入れられたのだろう。
また、ブログで短文すぎる記事を書くと見映えが悪いが、ツイッターならば1行でも構わない。
この文字数の制限であれば、文章の起承転結どころかタイトルさえ必要ないし、発信する人の文章能力や知性や教養、さらには思想や道徳まで目立たなくなる。
確かに気軽だな。
しかしながら、今でさえ「恥の文化」が色濃く残っている日本の社会において、ツイッターという匿名、つまり他者の目を気にしなくても構わないという環境が何を意味するか。
それは、恥の文化において恥という要素が除外された状態に相当する。
恥を気にしなくなった状態で、日本人はどのような行動に出るのだろうかと眺めてみると、リアルな状態では隠されていた内面が一気に噴き出すことがある。
日本において、ツイッターが「馬鹿発見器」や「バカッター」と揶揄されることがあるのは、判断における「恥」という基準がなくなっているからだろう。
もしも、ツイッターの使用において、マイナンバーが紐づけられて、しかも実名での投稿しか許されないという話になったら、どのような世界になるのだろう。
日本のツイッタラーたちは、恥の文化を丸出しにして、毎日の食事とか景色の写真を頻繁にアップロードしたり、仕事で頑張っているとか、家庭を大切にしているとか、そういったフェイスブック的な投稿を連発するはずだ。
ツイッターについて色々と考えていたところ、このサービスについて米国の大統領が怒って、SNSに対する強力な規制、あるいは廃止について言及したという報道がなされた。
本社がある国のリーダーが怒っているのだから、日本においても何ら気を遣う必要はないと思う。
私も、いや、多くの日本人のネットユーザーたちも、ツイッターについては何らかの法的規制が必要だと感じていたところだ。
しかし、彼の場合には、発信した内容に対してツイッター社がクレームを付けてきて、言論の自由ではないかとお怒りなのだそうだ。
言いたいことは分かるが、ベクトルが違う。
それまでの経緯が違うにも関わらず、彼と着地点が同じということは、とても不思議だな。
このようなツールが好きな人は使い続ければいいと思うが、私は苦手なので、ブラウザでツイッターをブロックしておこう。
昨今の社会情勢において、とても大切な情報が流れてくると期待しながらツイッターを眺めてみたが、役に立った情報といえば浦安市の公式ツイッターくらいだった。
だが、市の公式ツイッターにやたらとリプライで絡む浦安市民がいて気になった。
ツイッターでどんなメッセージを投げかけようとも、浦安市の行政はツイッターでは変わらないし、自分が思っているほどには他の市民がツイートに感心してもいない。
逆に、市の公式ツイッターにリプライすることでバイアスをかけたり、炎上を誘ってしまうリスクもある。
それと、健康のためには画面から目を離して、浦安を散歩した方がいい。浦安散歩は素晴らしい。
さて、ネットに疲れたと感じた人たちにおかれては、騙されたと思ってツイッターのアカウントを削除して、アクセスを絶ってみれば分かる。
そこには、とても穏やかな世界が広がっているから。