2020/05/25

新しい朝が来た 希望の朝だ

朝起きてカーテンを開ける。ここしばらくは肌寒くて湿気を帯びた空気だったが、今朝は空が晴れ渡っている。こんな日は、ロードバイクに乗って心地良い汗を流したいものだが....


我慢しなくても構わない日々が近づいてきた。

長かった、本当に長かった。

小学校の休校や外出自粛が始まった当時は、私も家族も気が張っていて、色々な意味で頑張っていた。

しかし、そのテンションは長くは続かない。休校や外出自粛が長引くと、家族一人ひとりがさすがに疲れてきた。

夫婦共働きの核家族状態で複数の子供たちを育てることは平時であっても厳しい。小学校や学童保育、塾まで閉鎖され、外出自粛。

不満を口に出すことさえ面倒になり、家族の口数が少なくなっていた。

うちの妻にいたっては、私が休日出勤で家の中にいない時の方が機嫌が良い。夫とずっと家の中にいることに疲れたようだ。

それは私も同じだな。

子供たちは一時外出の散歩で私が連れ出すルートに飽きてしまっていて、つまらなそうに無表情で歩いているが、父親としてもこれが限界だ。

とりあえず、子供たちに太陽の光を浴びせて、身体を動かす時間を用意する。散歩ルートの中におやつを買う場所を決めておいて、ささやかな楽しみだけは用意する。

この子供たちとの外出が、とても面倒で時間を削られる。最初は子供たちとの時間が増えたと喜んでいたが、とにかく面倒くさい。

嫌だ、行きたくない、私は子育てに向いていなかったと嘆いても、私は父親なので仕方がない。

家の中で子供たちの面倒を見ながら、在宅で仕事をすることがどれだけ大変なことかを痛いほどに実感した。

学校が休校している状態で、在宅で普段と変わらない仕事をやれという指示が降ってきて、私は担当者に対して答えた。

「無理だよ、それは」と。

出世を気にしないマーベリックな生き方を選択した古株のベテランだからこそ言えることかもしれないが、家庭内で子育てをしている状態で職場にいる時と変わらない分量の仕事に専念するなんて、現実的に考えて困難だ。

子育てを経験していれば、その理由なんて説明するまでもない。

すると、通勤時間がなくなったのだから、その分でワンオペでも子供の世話ができるだろという苦し紛れの弁明があった。

通勤時間分の労力で家事と子育てが完結すれば、主婦は苦労しない。昔のヤンキーならためらわずにナメんなこら状態だな。

つまり、それは上からの指示がおかしいわけだが、組織では往々にして矛盾があっても飲み込むイエスマンが出世する傾向があって、明らかにおかしい指示を下に伝えたりもする。

立場主義、ここに極まれり、だな。

仕方がないので、個人レベルで適切に対処する他に手段はない。

そう、適当にではなくて、適切にだ。

しかも、この状況で小学校から学習用の宿題が出されて、親が監督することになった。

それもおかしな対応だ。こちらは夫婦共働きで交互に在宅勤務をとりながら仕事を続けているんだ、どこにそんな余裕があるんだよと思った。

可能な限り親の負荷を減らすためにも、教育現場においてはオンライン授業の準備をしておく必要があった。

しかし、いつまでもオフラインにこだわっていたから、こうなったんだという指摘をすることは容易だが、今の先生たちの業務の苛烈さを眺めていると、無理も言えない。

旧態依然とした紙をベースとしたスタイルだって、ネットの使用に疎い校長や教頭などの管理職、あるいは自治体の教育委員会の幹部たちの頭の中がオフラインだからなのだろう。

デジタルネイティブな世代が舵を取る日が来るまで、おそらくこの流れは変わらない。

職場だけでなくて、学校についても感じることだが、「父親は仕事、母親は家庭」という固定概念がまかり通ったまま、この緊急事態宣言の状態を突き進んだ気がしてならない。

いくら行政が夫婦共働きを推奨したところで社会が対応しきれていないことは感じていたが、平時であれば何とか乗り切ることができた。

しかし、非常時では、我が家はその影響をモロに受けたな。職場や小学校に文句を言っても始まらない。彼らだって、緊急事態では最も慣れたスタイルで対応せざるをえなかったのだろう。

専業主婦の母親が自宅にいるというスタイルは少数派になっているはずだが、その想定によって、たくさんの共働き世帯が苦しんだな。

思ったよりも頼りになったのは、浦安市役所の対応だった。

先頭打者ができる限り粘って投手の癖を把握し、出塁したら次の打者は送りバントといった感じで、まるでセオリーを重視した野球のような対応だな。

派手さもアピールも少ないが、確実に得点し、できるだけ守備でのエラーを減らしている。

市民にとって次の一手が分かる行政とは、すなわち市民が理解しやすい行政だ。野球を見ているかのような気分になる。

もしかして、浦安市長は野球好きなのだろうか。野村監督に似ている気がするが、あの風体はオマージュなのか。

ところで、雨が降り、肌寒く感じる鬱陶しい天気が続いた日の夜、うんざりした顔の妻が私に問いかけた。

「ねぇ、緊急事態宣言、いつになったら解除されるのよ!?」と。

夫に尋ねて分かるような情報なのか。

たとえそれを知っている立場にいたとしても、国家の機密情報に該当し、家族であっても教えられないことだろう。

長かった。本当に長かった。

すでに社会も経済も限界に達している。これ以上の我慢は現実的に考えて難しい。

ここまで人々が我慢を続け、一気に緊張感が解けると、夜の街に繰り出す人たちが出てくるはずだし、多くの人たちが満員電車に詰め込まれて輸送されることだろう。

このまま新型コロナウイルス感染症がSARSのように消えてなくなるのか、社会に定着してしまうのかは分からない。

再び感染者の増加がやってくるかもしれないし、経済へのダメージを考えると気持ちが沈む。

しかし、今はただ、状況が好転したことを喜びたい。

医療関係者や行政、専門家だけの努力でここまでの成果を出すことは不可能だった。

多くの国民が努力して耐えたからこそ、海外から「日本の奇跡」と呼ばれる状態を維持してきたと思う。

もっと自信を持とう。第二波が来ても、私たちならきっと乗り越えられる。

私の親も含めた高齢者たちには気の毒だが、この社会は可能な限りの配慮を続けてきたと思う。

小さな子供たちまでマスクを付け、学校に通うことさえ我慢してきた。一方、高齢者たちはどのような態度をとってきたか。これから、その答え合わせが始まる。

さて、医療機関の余裕も出てきたようなので、自粛していたロードバイクのライドに出かけることもできそうだ。

河川敷の遊歩道は人混みが予想されるので、やはり人通りが少ない一般道を走ることになるな。それでも素晴らしいことだ。

それにしても、何だろう、この解放感は。

窓から見える青空を眺めながら、昭和の歌謡界の伝説となった藤山一郎さんが歌った「ラジオ体操の歌」を口ずさむ。

「あた~らし~い あ~さがきた~ きぼ~うの~あ~さ~だ」

この曲は、文字通りにラジオ体操の歌だが、一部のアニメファンの中では「GANTZ」という作品で登場するシュールな歌としても使用されていたりする。

GANTZは、一部の人たちから熱狂的とも言える人気を集めたSFの物語だ。原作のコミックだけではなくて、アニメや映画にもなった。

この物語は、すでに命を落とした人たちの生命情報のデータが、GANTZと呼ばれる黒い球体によってデジタルで転送され、思考や記憶まで再現された形で復元されて生き返るというストーリーだ。

学生やサラリーマン、子供や年配者に至るまで、ランダムに選択されてGANTZに転送されて、元の生活に戻るわけだが、彼らには地球上にいる宇宙人と命懸けで戦うことをミッションとして課せられる。

宇宙人と戦うファイターたちには、ミッションの度に元の生活から戦場へと転送され、そのミッションを拒否することが許されない。脳の中に起爆剤が埋め込まれているので、逃げ続けると爆発してしまう。

解放されたければ、宇宙人と戦い続けてポイントを貯めるしかないという不条理な設定がなされている。

そして、ミッションが開始される時にGANTZから流れるメロディーが、ラジオ体操の歌。

シュールだ...なんてシュールなんだ。ミッションから生き残って帰ってくる人たちの方が少ないのに、どうしてラジオ体操なんだと。

GANTZの世界観は原作のコミックが最も理解しやすい。

それまでの少年漫画では、物語の柱となる正義と悪の構図がはっきりしていて、戦った相手との友情が芽生えて仲間となり、一緒に力を合わせて頑張るというスタイルが多かった。

しかし、GANTZの中では、人類が正義で、宇宙人が悪という構図が必ずしも成り立たない。

人類を食料として食べてしまう宇宙人だって、人類が他の動物に対して行っていることと同じだったりもするし、目立たずに温和しく生活していた宇宙人を人類が襲うこともある。

それと、GANTZで転送されてきた人たちがもの凄い勢いで消えていく。命の扱いが冷酷なまでに軽い。

キャラクター同士の友情や恋愛が生まれても、次のエピソードでキャラクターが真っ二つになって絶命したりもする。

この流れは進撃の巨人まで続いているな。

いわゆる特殊な装備を得たキャラクターたちが、たくさんの人たちの幸せのために頑張るという中二的なスタイルも少なくて、その力をとにかく生き残るために必死に使う。

もしくは、宇宙人と戦うこと自体を楽しみにしていて、リアルな現実にも人助けにも関心がないキャラクターもたくさん登場する。人の我や欲を考えれば、このストーリーの方が自然かもしれないな。

また、GANTZに限らず、作者の奥浩哉さんが描く世界ではSFの中に日本の社会の課題や歪み、反省といったことまで組み込まれていて、時に神妙になることがある。

そのクライマックスの「カタストロフィ編」では、人類に最大の脅威をもたらす宇宙人との間で命を賭して戦うGANTZファイターたちに対して、ネットやテレビで上からな批判を飛ばす人たちの姿が描かれていた。

この物語はフィクションでしかないわけだが、そこで映し出された人々の心理描写は、現実においても生じうるのだなと思った。

新型コロナウイルス感染症が全世界にダメージをもたらしているリアルな世界でも、非常によく似たことが起きている。

自分たちを守ってくれている医療関係者や研究者たちに対して、ツイッターやヤフコメで罵詈雑言を飛ばす人たちがたくさんいる。

GANTZの物語の途中まで、宇宙人とファイターたちは、一般人が気が付かないエリアで戦闘を繰り広げていた。

そして、GANTZスーツを身にまとったファイターたちが一般人たちの前に姿を現すようになると、ネット等を介してデマや誹謗中傷が一気に広がった。どこだったかな...ああ、「大阪編」くらいからだ。

これだって、新型コロナウイルスに対して、PPE (Personal Protective Equipment)という防護服を着用した人たちの姿がメディアで映し出された時に同じようなレスポンスがあった。

しかし、PPEを身にまとった医療関係者や研究者たちは、今回の事象が生じるずっと前から感染症と戦い、人々や社会を守ってきた。

一般の人たちは、あまり感謝もしてこなかったことだろう。自分たちの生活が守られていることをメディアが伝えず、普段の生活では自覚する機会がないだろうから。

そして、決して全てではないけれど、「仕事だから、やれ」という感じで様々な文句を飛ばす人が現れる。マスコミや団塊世代に限らず、日本に多いタイプだな。

人々を守ってくれている職業人たちは、どのような気持ちで仕事に取り組んでいるのだろうか。

出羽守になるつもりはないが、欧米では新型コロナウイルスと戦う人たちに一般市民が拍手を送って感謝したりもする。日本はどうなのか。

その世帯の家族が感染症対策の仕事に就いているというだけで、近所から距離を置かれたり、子供がいじめを受けることさえあったそうだ。

うちの子供たちが通う小学校でも、新型コロナウイルス対応に従事している人の家族の子供をイジメるなという旨の文書が配布された。なんだそれは。

世のため人のために頑張ってくれている人たちに対して、日本の社会はあまりに感謝や労いが少なくはないか。

自分たちが守られていることは当然だと思っていないだろうか。「仕事だから、やれ」という感じで。

そして、感染症対策における行政や世論の関心のなさは、世界規模のパンデミックにおける日本の対応の遅れとして如実に現れた。

それと、多くの人たちから批判を受けているテレビのワイドショー、あるいは誹謗中傷を飛ばすネットユーザーについては、GANTZよりも「いぬやしき」という奥浩哉さんの作品の方が強烈なメッセージを感じる。

あまりに衝撃的過ぎて、録の中に記すことさえはばかられるくらいだ。

かといって、奥浩哉さんが反社会的であるとか、反体制であるとか、そういった印象を私は持たない。

むしろ、彼は、とても素直でニュートラルな感性の持ち主なのだろうなと思う。多くの人たちが感じていることを、彼なりの描写で表現したという話だな。

ところで、GANTZのミッションが始まる時、どうして黒い球体から藤山一郎さんの「ラジオ体操の歌」が流れるのか、以前から不思議だったのだけれど、やっとその意味が私なりに分かった気がする。

このストーリーの中で使用されるラジオ体操の歌は、普段と変わらない平凡な日常と、脅威を前にした命懸けの戦闘の境目を表現しているのではないかと思う。

また、クライマックスのカタストロフィ編は、どう考えても第二次世界大戦の過去を参考にしているとしか思えない。それはガンダムにしてもマクロスにしてもそうだな。

先の大戦での敗戦から日本が立ち直り、豊かな生活を続けていることは素晴らしいことだ。

だが、その豊かさに浸かり、それが当然だと思い込んで有り難くも感じず、社会を脅かす存在のことさえ考えない人たちに対する警鐘のような意味があるのかもしれない。

さて、前向きなのか後ろ向きなのか分からなくて、GANTZのレビューをやっているのかどうかも分からない今回の録だが、新しい生活様式なるものが提唱されても、実際にやることは変わらない。

しばらくすると、いつもの満員電車での通勤が始まり、いつもの忙しい夫婦共働きの子育てが始まる。

一方で、心のどこかに黒く残った感染症への懸念と、落ち着かない社会はまだまだ続くことだろう。

これが新しい生活なのかというと、「新しい」という前向きな言葉で誤魔化してほしくないという気持ちがあるし、そんなことくらい多くの人たちが気付いていることだろう。

この状況の中で、私が心がけることは何だろうか。

平時ではない状況下で感じた人や社会の本質について、忘れずに記憶しておくことかもしれないな。

何が大切だと思ったか、何が課題だと思ったか。頼りになった存在と、頼りにならなかった存在についても見極めておきたい。

五十路まで生きてくると、色々な経験やしがらみが多くて頭が重くなる。この辺で価値観をスリムにしておく良い機会だ。

そのように考えると、パンデミックは幸せな事象だとは思えないが、人生を振り返った時には貴重なエピソードになるな。

そういえば、携帯プレーヤーの中に、藤山一郎さんの「ラジオ体操の歌」が入っていたはずだ。

数日間、この曲をヘビーローテーションで聴き続けよう。当時の心境を回想するための目印になるだろうから。