ネットを漂流してたどり着いた島
このランキングに参加する場合には、「ポチッとお願いします」という感じのSNS全盛期では懐かしさすら覚えるバナーをブログに貼るわけだ。
しかし、最近になって気が付いたのだが、FC2には、実際に入会してサービスを使うことで参加することができる、もう一つのランキングがある。
ログイン後の画面で、希望するジャンル、および下層のサブジャンルを選択することで、簡単にランキングに参加することができる。
評価の基準はアクセス数だけなのだろうか、サイトにバナーを貼る必要もない。
ジャンルやサブジャンルの選択は自由で、かなり広い分野にわたって細かく区分が用意されている。
特にランキングでの競争に関心はないが、趣のあるブログに出会えるかもしれないと感じた私は、この機能を使ってみることにした。
さて、どれにしようかなと区分を見渡して、ジャンルとして「心と身体」、サブジャンルとして「メンタルヘルス」を選択してみた。
一度も疲れたことがない人ならば、このジャンルに参加している人たちが心を病んでしまった弱い人たちの集まりだと勘違いすることがあるかもしれないが、私はそのように感じない。
数年前に、共働きの子育てと通勤地獄でバーンアウトしかけた私は、その期間、必死に自分と向き合った。
このままでは仕事ができなくなり、家計が傾き、私自身が動けなくなると思った。
元気だった頃は、妻や子供たちが心の支えになってくれると安易に思っていたが、まさに自分だけが深い井戸に落ちたような感覚だった。
また、二度と経験したくない苦しい経験ではあったけれど、大切だと感じたことはたくさんあった。
五十路まで生きてくると、老若男女問わず、他者のことに気を遣わずに自分が正しいと信じて疑わない人たちを見かける機会がたくさんある。
そのような人たちに「あなたは、鬱にならなさそうですね」と発言すれば、「ああ、よく言われますよ」と誇ったように答えることがあったりもするわけだが、本人たちはそれが皮肉ではなくて誉め言葉だと勘違いしたりもする。
そして、往々にしてメンタルな問題を小馬鹿にしたりもする。
そのような人たちは、自分のメンタルが強いと誇ったりもするわけだが、実際に話をしてみると人生観や世界観がスカスカだったりもする。
スカスカという表現を具体的に説明すれば、自らの顕示欲や偏見が前に出ていて、考え方や捉え方に奥行がない。
そして、常に自分と誰かを比べて、ちっぽけな優越感を得ようとする。物事に対して上から批評することが好きで、自分自身を顧みることがほとんどない。
職場の上司に媚びへつらっておこぼれや出世を狙い、それによって部下の手柄を奪い、気に入らない部下にはパワハラを加える人に多いタイプだな。
家庭内で、配偶者や子供に厳しい言動や暴力を投げつけて精神的に追い込む人たちの中にも、自分のメンタルは強いと勘違いしている場合が多いのだろう。
最近では夫から妻ではなくて、妻から夫に対してモラルハラスメントを加えて、夫を帰宅恐怖症や適応障害に追い込んだり、夫から離婚を切り出されて泡を吹く妻が珍しくないそうだ。
職場の同僚については、そのようなタイプの人と真正面から対峙すると時間と気力を消耗するだけなので、相手にしないことが最良だな。
家庭については、相手にしないわけにもいかないが、やはり話し合いをして距離を保つ必要があることだろう。
仕事においては、他業種の人が耐えられないようなストレスに耐えることができる人たちはたくさんいる。それは職務への適性とか訓練といった裏打ちする存在があるからだと思う。
私の場合には、人の死というものがとても近いところにある仕事だったりもするわけで、仕事の中で誰かが亡くなっても、あまり気にしなくなってきた。
逆に、そのような事象を真正面から受け止め続けていると、自らの精神がダメージを受けるわけだし、仕事をこなすためには感情を止めなくてはならない状況も多々ある。
「ああ、これは苦しそうだ」とか「ああ、これは悲しそうだ」と察することは大切だが、そのような感情を頻繁に察していたら仕事にならない。時に感情を切り離す冷徹さも必要で、まあそれが仕事というものだろう。
だが、仕事が終わってプライベートな時間になると、そこからはただの中年親父だ。通勤ラッシュに耐え、妻の怒りに耐え、子供たちのわがままに耐える。
大好きな自転車を愛で、通販サイトを眺め、時には生きることに悩み、そういった平凡な人生だな。
「うつにならなさそうな人」からは学ぶことが少なくて、相手にすると不快になることが多いのだが、逆に、「うつになって回復した人」からは学ぶことが多い。
辛い病を耐え抜いた人たちだからこそ有する独特の雰囲気、人としての厚みや優しさ、生きる上での余裕。
元々、生真面目で優しい人の方がストレスを感じやすいわけだから、生来の気質として相手を思いやる心があるのだろう。
うつになりにくい人は、大雑把で相手のことを思いやれない人たちが多いと思うわけで、だからこそストレスに強かったりもするのだろうな。
私はうつ病を経験したことがないけれど、この疾患は生活に直結し、時に死に至るような病だ。
その危機で必死に耐えている人たちは世の中にたくさんいて、必死に生きて回復した人たちもいる。
メンタルに関わる疾患は、うつ病だけではなくて、強迫性障害やパニック障害、適応障害、その他、たくさんの種類がある。
うつ病とバーンアウトの違いについて文章で読めば何となく納得した気持ちになるかもしれないが、それらは実際に体験してみないと違いが分からないかもしれない。
しかし、それらに共通するのは、いつになったら完治するのか分からない絶望感と、自らの意思に違えて心や身体が反応してしまう苦悩ではないだろうか。
そういった苦しい時期を経験した人たちからお話をお聞きすると、苦難を乗り越えたことがない人とは比べ物にならないくらいに深淵な人生観や世界観を学ぶことができる。
時には、その価値観の根底にあるベースポイントが「死」であることも珍しくない。
死を身近に感じたからこそ、そこからセットバックして残りの人生をどうやって生きるのか、つまり「生」について真剣に考えた軌跡を感じる。
順風満帆というか、平凡というか、あまり苦労せずに生きてきた人たちからは、自らの生き方を突き詰めて考えたことがない甘さを感じたりもするわけだが、そういった人たちが気付いているとは思えないことがある。
それは、どんなに健康な人生を送っていても、いつかは死がやってくるということだ。
起点は突発的な事故や疾患かもしれないし、癌や生活習慣病かもしれない。
その時に病院のベッドの上で人生を振り返ったり、避けられない運命に対して慌て嘆いても遅い。短い時間で自らと向き合うことは容易ではないからだ。
ということで、「メンタルヘルス」のサブジャンルのランキングに自ら入っていけば、絶望の淵から這い上がってきたサバイバーたちのブログに出会えるのではないかと私は思った。
そして、実際に自分のブログをランキングに登録したところ、大してアクセス数がないサイトにも関わらず、「心と身体」のジャンルで 1610位/23316人、「メンタルヘルス」のサブジャンルで 257位 / 3652人という結果だった。
ブログを立ち上げて、更新を継続することができる人の割合は10%くらいだという話を見聞きしたことがあるが、まあこれが現実なのだろう。
メンタルヘルスのサブジャンルに参加しているブログを眺めてみた。私にとって懐かしくもあり、怖くも感じる雰囲気を感じる。
様々な疾患を抱えて苦しんでいる人たちが書き綴る文章には、ネット検索エンジンを埋め尽くしているような薄っぺらいアフィリエイトブログのような印象はどこにもない。
文才があるかどうかなんて、文章の価値には関係なくて、人が真剣に書き綴ったものだからこそ、心に響く。
一方で、しばらく複数の記事が更新された後で、突然、更新が途絶えてしまったブログが目立つ。
別れの挨拶もなしに。一体、何があったのだろう。
さらに衝撃的なのは、「首の吊り方」といったブログまで認められたことだ。人は生きていれば、いつかは死が訪れる。
人生なんて、死ぬまでの暇つぶしだと唄ったロックな人がいたが、その程度の感覚で生きればいい。
嫌なことから逃げたくなったら、逃げてもいい。生き続けることは、逃げることではないとアドバイスを送っても、相手の心の中には届かないかもしれない。
私自身、メンタルヘルスについてどのように考えているのかというと、脳が高次機能を担う存在であったとしても、やはり一つの臓器に過ぎなくて、負荷が増えれば調子が悪くなる。
その機序は、人の強さや弱さという考えで語られるものではないし、調子を崩したからといって他者や自らが責める必要もない。
走り続ければ心臓や肺が苦しくなり、食べ続ければ胃が苦しくなる。ストレスを受け続ければ脳が苦しくなる。
脳の疲労について突き詰めれば、神経細胞同士の情報伝達、あるいは伝達に関与する液性因子等の産生の多寡といった話になる。
分泌型蛋白質の受容体などは明らかに創薬のターゲットになっていて、患者が理解していなくても受容体に結合する化合物を飲んでいたりもするわけだ。
しかし、感情や思考、ストレスといったテーマは、現在の科学において最も解明が難しい分野の一つだ。
もちろん全世界で多方面から研究が行われ、たくさんのことが分かってきたが、現実的に人々が苦しんでいる事象を速やかに解決する段階には至っていない。
しかし、メンタルの調子を崩すということにおいては、何ら忌避することはなくて、その背景には細胞レベルあるいは分子レベルでのメカニズムが存在する。
私たち人類は、そのメカニズムを現段階で全て解明できていないだけの話だ。人の精神活動の全てを理解することが現実的に可能なのか否かは別として。
また、病気になれば薬を飲むといったスタイルが定着してはいるが、ストレスによって生じた病気の場合には、そのストレスを解除するという原始的にも見える手段が有効だったりもする。
都内のメンタルクリニックの前を通ったら、スーツ姿のサラリーマンたちがたくさん並んでいる光景を目にしたことがある。
入口から外まで人が並ぶなんて、どうなっているのかと思ったし、ストレスを除去することができないまま薬を飲んで忍んでいる人たちが多いことだろう。
それが今の社会の現実かもしれない。
それらの治療薬についても、立派な添付文書があって、セロトニンとか拮抗薬とか、いかにも科学的で難しい用語が使われていたりもするが、開発段階での原理は驚くほどに単純だったりもする。
精神に働く治療薬の場合、実験動物を用いた効果の立証がとても難しい。人間のように高度な思考を持った生物がいないので、治療薬の開発における大きなボトルネックとなっている。
それでも、医師や製薬企業、もちろんだが患者の皆さんが治療薬の効果を試し、少しずつ知見を積み重ね、今に至っている。
脳科学における治療薬の作用については、ある程度の原理や機序は分かっているし、知らない人から見れば詳しく解明されているように思えるだろうけれど、実際は謎ばかりだ。
しかし、クリニックで「はい、お薬出しておきますね」と言われたら、「そうか、効くんだよね」と思ってしまうことだろう。
臨床試験で統計解析を行えば有意差が出るかもしれないし、科学的な裏付けがあるからこそ医薬品として認可されるわけだけれど、人によって効き目は違う。
むしろ、薬剤の副作用に苦しんだり、離脱症状で苦しんだり、これが効かない、あれが効かないと試しているうちに薬漬けになってしまうことだってあることだろう。
そのような不確定な状態であっても、生き抜いている人たちは本当に弱いと言えるのだろうか。
むしろ、人として「強い」からこそ生き続けていられるのではないか。
機会や環境、体質などは、万民に公平に与えられるはずはなくて、それぞれの人たちはそれぞれの生き方がある。
不遇であったとしても諦めずに前に進み続けることに、生きる意味があるのではないだろうか。
....と高尚なことを行ったりもする私だが、実際に自分がバーンアウトしかけて取り組んだことが何かというと、自転車に乗って走りまくるという荒療治だったわけだ。
当時は疲れ果ててしまって、本当に大変な時期だったな。
まさか趣味で続けていたサイクリングにここまでの効果があるとは思っていなかったし、他の人が真似して効果があるかどうかは分からない。
自らを追い込んでしまった原因は分かる。
妻や子供たちの言動とか、長時間の電車通勤とか、細かく分析すればキリがないのだが、最も深い位置に存在していたのは子供の頃から抱えてきた感覚過敏だな。
この感覚過敏が、ギフテッド体質によるものなのか、発達障害によるものなのか、あるいはそれらに関係しないHSPによるものなのかは分からない。
生き辛さを感じながら耐えてはいるが、まあ父親同士の職業のマウンティングでは負けたことがない仕事に就いているわけだし、稼ぎもそれなりにある。
感覚が過敏だからこそ向いている職種もあるわけで、「偉そうに、何を言ってんだ」という突っ込みについても、実際に話せば分かってもらえることだろう。
感覚過敏を有している人たちが、決して少なくない割合でバーンアウトを経験するという論文を読んだ時、「なるほどそうか!」とは思わなかった。
脳に膨大な情報が入ってくるのだから、脳神経系に負荷がかかるのは当然だし、自ら望んでそのような体質になったわけでもない。
ただ、そういった生き方だからこそ感じたり、考えたりすることは確かにあるし、同じ境遇の人たちと気持ちを共有したいという気持ちもあったりする。
いや、そういったハンディキャップであっても、大きな視点に立てば個性の一つなのかもしれないな。
その性質を使って生計を立てて、子供たちを養っているわけだ。
さて、あえて閲覧履歴を相手に通知する「足跡機能」を設定した状態で、メンタルヘルスのジャンルで記事を更新し続けている人たちのブログを拝見した。
以前から私が欲していたタイプのブログがたくさん並んでいた。
自らと向き合い、自らを取り巻く環境を感じ、自分なりの答えを見つける。それらを他者に押し付けることはなく、淡々と書き綴っていく。
本人たちは気が付いていないのかもしれないし、まだ苦しみの中に居続けていると感じているのかもしれないが、その取り組みこそが他者に大きな力と励ましを生む。
ここまでネットが発達し、SNSが普及し、誰もが繋がることができると感じる時代がやってきた。では、人と人とが本当に繋がることができるような時代になったのだろうか。
数え切れない人々がSNSを使ってネット上に不平不満を垂れ流し、誹謗中傷を飛ばし、自らを誇示し、承認を求める。
かつてはネットユーザーの拠り所だったホームページやブログは、広告代という小銭を稼ぐアフィリエイトを目的とした人たちによって埋め尽くされ、内容の薄いペラペラの文章が並ぶ。
その結果として人々の心に差し込むのは、居場所のない浮遊感と深い孤独感ではないか。
古臭い昭和の人と言われても、ネット黎明期の小部屋的なサイトたちは、一体、どこに行ってしまったのだと、私はずっとネット上を漂流し、その場所を求めていた。
そして、途中でうんざりして、SNSやブログを含めてネット断ちに近い状態になっていた。
ところが、FC2のようなブログサービスのランキングの中で、一部のネットユーザーたちが島を形成するかのように存在していたというわけか。
なるほどそうかと感慨にふけっていると、しばらくして、HYPSENTのサイトにアクセスの流入があった。
アクセス解析のツールを使って分かることは、時間帯やネットユーザーのアクセスポイントくらいの情報だ。それらの情報はとても無機質で、単なる数値にしか感じられないことが多い。
しかしながら、今回のアクセスの増加は、足跡機能という昔ながらの方法を使って私が実際にサイトを拝見し、その履歴からHYPSENTにアクセスくださった人たちによるものだった。
実際に拝見したサイトは、ユーザーの内面が読み取れて、たくさんのことを学ぶことができる素晴らしい内容ばかりだった。
そのような素敵なサイトを継続されているユーザーが、HYPSENTのような陰鬱なサイトに訪問してくださることを心苦しく感じつつ、温かさと有り難さを覚えた。
とても居心地が良い環境だな。何より、この距離感がいい。
メッセージを発信した直後に相手に届いてしまうSNSは、おそらく人と人との距離が近すぎるのだと思う。ネット上のユーザー同士の距離はこれくらいがちょうどいい。
ここまでネット上で落ち着ける気分になったのは久しぶりだ。
人は一人で生まれて、一人で死んでいく。
親友や家族であっても理解しえない、さらには自分自身ですら理解しえない自分というものがあって、常に孤独を感じながら生きている。
しかし、人は心のどこかで和やかな町というか...島的な雰囲気に浸りたくなるのではないか。
SNSというツールは、かつてはその役割を担っていたはずだが、現状を見る限りには似て非なるものになった。
より迅速に人の内面を伝え、より多くの人たちの心を繋げようとすれば、どこかに無理がかかって疲れてしまうからだろう。
今の心境をポエムな感じで表現すれば、これまでの私は、小さな舟に旗を立てて一人で乗り込み、ネットの海に浮かんでいた。
かつて楽しんだ穏やかな世界が、この先のどこかあるのではないかと、必死にオールを漕いでいた。
しかし、コンパスは回り続け、航海図も役に立たない。呼びかけても周りに誰も見当たらない。
たまに他の舟とすれ違うことはあっても、どのような人が乗っているのか、顔が見えない。
そして、焦れば焦るほど、海の中からはたくさんの怒号や呻き声、せせら笑いが聞こえ、鋭い爪が伸びた無数の手が伸びてくる。
その人たちは、自己顕示欲や承認欲に耐えられなくなり、ツイッターやヤフコメといった深みに飛び込んで以下略。
自らが乗った小舟は嵐の中でボロボロになりながら、気が付くと小さな島にたどりついた。
島の中には住人が去って朽ちた家が数多く認められるが、眺めの良い場所の所々に丁寧に手入れされた家が点在していて、住人の顔が見える。
こちらから挨拶すると、住民の皆さんも気付いて手を振ってくださる。
今ここという感じだな。
メンタルヘルスのサブジャンルだけでも、読み終えられないくらいのブログが並んでいる。
他のジャンルのブログも拝見することを考えると、膨大なブログの数になるし、さらに各々のユーザーによって更新が続く。
とても幸せなことだ。
昨今の私は、社会の本質を見た気がして、ネット上で写真なんて紹介するものかと、ひどくやさぐれていたわけだけれど、日常の風景を撮影して紹介するくらいのことをしないと、何だか申し訳ない気がするな。
新しいデジタルカメラを買って、写真でも撮ってみようか。
なるほど、これは前向きな思考だ。
人は常に孤独だと私は信じているが、他者から間接的に受け取る力は大きい。新しい気付きに繋がった。
これだから生きることは面白い。