2020/05/20

老後でも続く趣味の大切さ

緊急事態宣言で小学校も児童育成クラブ(学童)も塾も閉じている状況で夫婦共働きとなると、夫婦が交互に出勤と在宅勤務を繰り返して子供たちの世話をするという状況になる。


在宅勤務とかテレワークといった働き方は通勤がなくて楽だなといつも感じていたが、この状況はイメージしていた姿と違って、あまりに厳しい。

全く集中することができないし、全く仕事が捗らない。

私が職場に出勤しても問題はないわけだが、その間は、妻が子供たちの面倒を見ることになる。妻の職場が在宅勤務に完全にシフトしてくれていれば助かったのだが、それは難しいそうだ。

つまり、妻が出勤する場合には、私が自宅に居る必要がある。

同じ浦安市内には妻の両親、私にとっての義父母が住んでいるが、二人は基礎疾患持ちの高齢者だ。子供たちを預けていてもしものことがあれば良くないと私は考えて、義父母に子供たちを預けないようにしてきた。

しかし、食材が切れてスーパーに買い物に行った時、別の意味で私は切れた。

新型コロナの感染によるリスクが高いはずの義父母が、なんとニューコーストの人混みの中で出歩いていた。

日用品の補充ならば理解しうるが、ショッピングモールにやってきて、店の中をブラブラして暇つぶしをやっていた光景を見かけて、私は言葉が出なくなり、相変わらずの人たちだなと思った。

人にもよるが、これが団塊世代の特徴のひとつだなと言わざるをえない。自分の意思がとても強くて、自分は大丈夫だとか、ルールに逆らうことに抵抗がないというか。

それだったら、子供たちを毎日のように義実家に預けて、私は仕事に行けば良かったと後悔した。別に気にする必要なんてなかったわけだ。

マスオさんであれば、「ああ、お義父さん!」と楽しげに義父に声をかけるシチュエーションだろうな。義父母に声をかけずに完全に無視して、私はその場を立ち去った。

お互いに干渉しない方が心穏やかに生活することができる。

通勤時間がなくなる代わりに、洗濯物を干したり、食事の後の食器を洗ったり、子供たちの食事をセットアップしたり、たまに外に連れ出したりと、もの凄い勢いで時間がなくなっていく。

また、子供たちが暇そうに家の中を歩き回ったり遊んでいる時に、横で親が仕事に集中することは難しい。メールのやり取りのような単純作業ならばやれなくもないが、いざ集中を高めなければならない作業では本当に厳しい。

ということで、夫婦ともに休日の日には、私が休日出勤して仕事をこなすという、もはや曜日の感覚が崩壊したような生活が続いていたりもする。

だが、集中することが難しい毎日の中だが、これも人生を振り返った時には重要なマイルストーンになるはずだ。

平凡な毎日の中で気づかなかったことがたくさんあって、それらを実感しているという点はとても大きい。

それ以外にも、漫然と考えごとに浸ることで、自分を見つめ直すというか、何か哲学的な思想にまで及ぶ気がする。

一つとしては、現代の生活において中心的なツールとなっている「ネット」という存在の儚さがある。

ネットによって確かに便利な世の中にはなったわけだが、これが心と心を繋ぐまでに立派な存在だとは全く思えない。

どんなに便利な道具であっても、それを使うのは人間だし、いくらネットが発達しても道具は道具でしかない。

一方で、アナログであったとしても、「趣味」という存在が、生活の中でここまで価値があったのかと気づいた時の驚きは大きかった。

とりわけ、外出自粛によって家の中にいて、たまに外に出る生活というサイクルは、子育てが終わり、職業人生をリタイアした後の私の生活を想像させる。

「共働きの子育ては辛い」とか「仕事が大変だ」といった苦しみは、時間とともに変化して、やがて夢のようになくなってしまうことなのだろう。

仕事や家庭で大変な時期には、「映画をたくさん見たい」とか、「前から食べたかった料理を食べたい」とか、まあそういったたくさんの理想というか希望を持つわけだけれど、いざ、その余裕が生じた時、はたして私は生活を楽しむことができるのだろうか。

今までにたくさんの人たちに出会い、話し合い、時間を過ごしたことがあったわけだが、いざパンデミックが起きて平時ではない状態になると、人と人との繋がりなんて脆いものだなと感じる。皆が自分のことを考えて行動する。

私だけではないはずだが、現在の社会情勢においては、感染症という脅威自体よりも、平時の社会が崩れ去ったことの方が疲れを大きくしていると思う。

その状況でも、普段から続けている趣味があると、変化に全てを流されることなく、自分を保っていられる。

この趣味という存在は、人生の大きな変化がやってくる時に気持ちのセーフティになる気がする。

パンデミックと直接的に比較することはできないことは分かっているし、極めて個人的な変化ではあるけれど、子育てや職業人生をリタイアした後の生活というものは、それまで平凡だと思っていたスタイルが一気に変わるという点ではよく似たものではないだろうか。

私の目には、職業人だった頃はバリバリと働いた団塊世代の父親たちが、定年退職と同時に真っ白になって、その後の生き甲斐を見つけられずに苦しんでいるように見える。

地域のボランティア活動、家庭菜園、散歩、買物、旅行など。外出の自粛が制限されていても高齢者が外を出歩いてしまう理由が分かる。

自宅ならば家庭菜園やお菓子作り、蕎麦打ちや料理か。

たまにツイッターを器用に操って政治活動や思想活動を展開している高齢者も見かける。確かに職業人としてリタイアすれば、職場のコンプライアンスを気にする必要もないだろうから。

しかしながら、私も五十路が見えてきて、彼らの生き方をあまり他人事のように感じられなくなってきた。

もしも平時の生活が続いていたとしたら、個人的には平時ではないリタイア後の生き方について、ここまで真剣に感じなかったことだろう。

私から職業人としての生き方がなくなった時、その後にどのような生活が待っているのか。いや、何が残るのだろうか。

現役時代には、「定年後に楽しみたいな」と考えていたことだって、すぐにネタが尽きて暇になる気がしてならない。

なぜなら、パンデミックがやってきて、インドアとして楽しみたいなと思っていたことはすでに終わったしまった感があるからだ。

何かを望んで生きることは大切なことだけれど、その底は思ったよりも浅いらしい。また、忙しい毎日の中で時間を見つけて楽しむからこそ、楽しいという話なのだろうか。

いや、これは大変なことだぞ。職業人生を終えて、ある程度の終活を行った後で旅立とうとしても、その理想通りに事が進むとは限らない。

だとすれば、今から老後に備えて友達を増やしておくという話なのか。

今までネットをきっかけとしてリアルな人間関係を広げようとしてきたが、老後どころかパンデミックがやってきたくらいで音信が途絶えるような人間関係だ。

加えて、子供たちを通じた保護者同士の関係なんて、砂上の楼閣のようなものだ。子供が成長したら何の関係もなくなる。

職場の同僚たちも、自分が退職すれば関係が切れる。年賀状が届くこともなくなることだろう。

すると、相手をしてくれるのは頑張って育ててきた子供たちくらいのもので、いざ就職して自立するようになれば、結婚話が気になり、挙式でいかにもな父親風の涙を流し、あとは孫の顔を見る日を心待ちにする。

たまに届く高校時代の同窓会の知らせ。

白髪頭になった友人たちと、若き日の思い出話を楽しみながら、胃が小さくなって入らなくなってきた状態で料理を食べ、アルコールの分解力が減ってきた状態でついつい深酒を飲むわけか....

マジかよ。

あまりに典型的な男の人生を歩んでいることに気付いて、何だか怖くなってきた。

学歴とか職歴とか資産とか、まあそういった色々なことをもって人生とは何たるかと語るわけだが、それらの価値観は、往々にして他者からの外的な評価、あるいはその評価を自らが意識して作り出すということか。

しかしながら、実際に老後に入った男の生き方においては、他者からどのように評価されようと関係ないし、あくまで本人がどのように感じるのかという内的な評価が支配するのかもしれない。

だとすると、その評価は想像以上にパターンが一様、あるいは虚無的であって、あまつさえ、何をどうあがこうとすでに取り戻すことは難しい。

なんてことだ。パンデミックという社会不安の中で、私はなぜに老後のことを考えてしまっているのだろう。

だが、今さら怯えたところで、また焦ったところで仕方がない。

職業人生が終わった後でも、私は普段から感じたことや考えたことをブログに書き記して、暇があれば自転車に乗ってどこかを走っていることだろう。

バーンアウトしかけた時にも、結局は自転車に乗りまくって運動するというシンプルなスタイルで耐えた。

世の中には様々な情報が飛び交って、何が正しいのか、何を信じればいいのかと迷うものだが、少なくともロードバイクに乗って走っている時の私は、そのような面倒な思考から解放されて、自らの心拍や吐息を感じながら前に進んでいる。

子育てや仕事を無事に終えて柱がなくなった時でも、自宅の中にはパソコンがあって、自転車が置かれていて、それまでと変わらない生活の一部は保たれるということか。

ブログにしても、ロードバイクにしても、特に意識して始めたことではないし、とりわけ目新しい取り組みでもないのだが、人生の終盤まで連れ添ってくれる趣味という存在は、とても大切なのだなと思う。