小学生のキャリア教育とGANTZ
元旦まで自宅で静養し、2日から職場で働いている。年末に処理しきれなかった仕事が山積みなので、妻も気遣ってくれている。
もしかして、妻としては面倒な夫が休日に自宅にいるよりも、仕事に行った方が気が楽なのかもしれないと感じることもある。今度尋ねてみよう。
妻は、私が休日にロードバイクのロングライドに行って帰ってきた時よりも、休日出勤して帰ってきた時の方が優しい。
年始の通勤電車は普段よりも空いていて、人混みの中のストレスは少ない。
駅構内があまりに空いていて逆に歩きにくくも感じる。いつもは人の波で押し流されて勢いがあるということだろうか。
職場に着いてメールボックスを開けると、年賀状よりも嬉しいメッセージが届いていた。
昨年、命が危うくなった人を助けたことがあって、ご家族と一緒に涙を流しながら感謝してくださったそうだ。
おそらくご家族ともに真っ暗な絶望の淵に落とされて辛かったことだろう。しかし、希望の光が見えて、こうやって年を越すことができた。
しばらくの間、オフィスの窓から正月の空を眺め、その人たちのより良い一年を願う。
誰かに必要とされることや期待されることは良いことだが、事が事だけに大きな責任と重圧が伴う。
助けようとする本人だけではなくて、ご家族や親戚、友人、同僚。たくさんの人生が関わる大切な局面。もはや後がない状況。
自分の力が少しでも人の役に立つのなら本望だ。
一方で、どれだけ努力しても助けられる人たちの割合は少ない。その不条理が頭の中で霧のように漂う。
人が生きるか死ぬかという仕事をしていると、両者の境界について深く感じることが少なくなる。
あまりに深く死を意識すると、逆に感情によって思考や手元が影響されることがある。
例えになるかどうか分からないが、道の上に白線が描かれていて、その上を真っ直ぐに歩くことは大して難しくない。
しかし、その白線の両サイドが崖だったならどうだろう。あまりに意識し過ぎると脚がすくんで歩けなくなる。
当然だが自らが実体験する時にはその境界を強く感じるわけで、現に先日も風邪を引いて寝込んだだけで大いに苦しんでいた。
苦しんでいる存在が自分ではないからこそ冷静になることができるが、逆にその苦しみを察することも大切だ。なかなか難しい。
では、私が本当に他者を助けようとして仕事をしているのかどうかというと、確かにそれもある。今までたくさんの人たちに助けて頂いたので、その恩返しという意味もある。
一方で、職業観において中二的なヒロイズムが心のどこか...というか、かなりベースのようなところにあることは間違いない。
少年漫画などでは、切羽詰まった状況でヒーローが登場して、超長距離から目標を撃ち抜いたり、広範囲にバリアーを張って多くの人たちを守ったりというパターンが多かったりする。
時代が変わり、そのスタイルが変わっても、男の子たちが胸躍らせるストーリーはあまり変わらない。
中年男性のブログやツイッターを眺めると、ガンダムのネタが登場することがよくある。シャアやアムロのセリフを引用する人がどれだけ多いことか。
彼らの少年時代にはガンダムだけではなくて、仮面ライダーやマクロス、そして青年時代にはエヴァンゲリオンや攻殻機動隊といった作品にハマったかもしれない。
私の場合には少年の頃に再放送だったかで観た「科学忍者隊ガッチャマン」が大好きで、将来は科学忍者になろうと思っていた。
しかしながら、ヒーローに憧れた多くの男の子たちが成長し、学生を経て社会人になると、もちろんだがそれらのヒーローはあくまで物語の中の人物に過ぎなかったことを知る。
そして、自分たちが父親になると子供たちがヒーロー的な存在に憧れている姿を懐かしい気持ちで眺めながらも、ワイシャツを着て首にネームプレートをぶら下げたり、作業服や制服を着て職場で働く。
納期に追われたり、取引先と交渉したり、職場の人間関係に悩んだり、長く続く会議で居眠りしかけたり。
新卒の頃には高い志を持って就職したけれど、その気持ちが薄れてしまうことだってあることだろう。
子供たちから見た父親たちの仕事の大切さや価値は、その子供たちが大人になった時、あるいは職業人生が終わる時になってようやく理解することかもしれない。
男の子たちの場合には他者と違った格好良く感じる職業に就くことを望み、親としては我が子たちがより安定した職業に就くことを望む。
私の場合にはどうだろう。ガッチャマンになろうと思っていたのだが、気がつくと「GANTZ」のような職場にいることに気づいた。
人間離れした頭脳を持った人たちがたくさんいて、「サイボーグ009」や「攻殻機動隊」のテイストもあったりするが、やはりGANTZ...いや、官能的なシーンがないGANTZだな。
GANTZについては詳しく解説しないが、ここで登場する中二的なセリフが普通に飛び交ったりもする。気を付けないと自分がヤバい。
また、XガンやZガン、ガンツソードのように自らに適した装備を選択するところもそっくりだ。
最近ではハードスーツでゴリゴリ行く人が増えたが、ガンツソードだけで戦うような人もいたりする。
また、社会のためになってはいるが、ほとんどの人たちが仕事の内容を知るどころか、存在さえ気づかないところもよく似ている。
そもそも、この職場にいる人たちは自分が望んでここに来たというよりも、人生を進んでいて気が付くとここにいたというGANTZの転送のようなパターンが多い。
仕事と趣味の境目がなくなっているくらいのモチベーションを持った人たちはたくさんいるし、100点をゲットしていなくなる人、さらには100点をゲットしたのに居続ける人たちもたくさんいる。
私自身は地味な働きではあるけれど、「この人、すげぇ!」と尊敬するような...GANTZで例えると岡八郎のような人がたくさんいたりする。
凄まじいIQを持っているのだろうけれど、普段の生活をしている時には全くもってただのオッサンだ。しかし、仕事になると格好良くて、このギャップがさらに面白い。
総じて、ヒーローものによくある男の子たちが胸躍らせる中二的な要素が多分に含まれていたりもする。
ただ、子育てを介してサラリーマンの父親たちと知り合いになってもほとんど話が通じない。
私としては差し支えない範囲でサラリーマンたちに仕事について説明するのだけれど、おそらく伝わっていない感が半端ない。
とりわけ、浦安の新町エリアの場合には大手企業の社員が多いので、最初の挨拶の次には会社の名前が出てきたりする。
「私は〇立です」とか「ソ〇ーに勤めています」とか「〇河電工の技術職です」とか「学〇で編集をしています」とか「ゴー〇ドマンです」とか「ジョ〇ソン・エ〇ド・ジョ〇ソンです」とか。
本社勤務かそうでないかについても気になったりする。
これが浦安全体のスケールになると、大手企業以外の会社あるいは子会社の社員の父親は、会社の名前を名乗らずに業種で説明したりもする。
「出版系です」とか「システム関連です」とか「IT系のベンチャーです」とか。
サラリーマンの父親たちの場合には、最初に名刺を出して、次に会社のことを中心に会話を組み立てていくのかもしれない。
それがプライベートの世界でも行われているようで、飲み会でも同じ感じになる。そして私は無口になる。
浦安市内の場合には、弁護士とか弁理士といった士業として独立している父親も珍しくない。会社を経営している父親たちの場合には乗っている自動車を見ればある程度想像がつく。
そういった父親たちの場合には、独特のプライドというか、何か勝ち誇った感じがあって興味深い。
私にとってはどの仕事も価値があって、大切だと思う。
しかしながら、同じ父親同士でさえ話が通じない私にとって、とても困ることがある。
それは、我が子たちが通う小学校での「キャリア教育」の授業。
我が子が小学校の冬休みの宿題で渡されたプリントをヒラヒラさせながら私のところにやってきた。
子供たちが、近しい大人から「どうしてその職業に就いたのか」とか、「どんな資格を取ればその職業になれるのか」といったことを尋ねて学ぶそうだ。
キャリア教育にも色々あるが、今回は仕事の話を子供たちが学ぶという体なのだろう。近しい大人といっても、子供たちが話を聞く相手といえば父親か母親になる。
おそらくだが、子供たちが尋ねてプリントに書き込んだ内容を他の同級生たちの前で発表することになる。その後は将来の夢についての作文だな。
うーん、しかし、そのようなプライベートな話を共有することは正しいことなのだろうか。様々な職種の人たちを小学校に招待した方が角が立たない気がするが。
子供たちが聞いてきた話は家庭において親にも伝わるだろうし、母親たちの井戸端会議やカフェ漫談の格好のネタになる。
父親について言えば世帯の個人情報に近いのではないかと思いはするし、仕事という話は時にシビアだ。
父親がうつ病で寝込んでいたりすると苦しみは結構なものになるし、子供が必ずしも親の仕事を説明したくない時だってある。
小学校の教師たちがそのリスクに気づいているとは思えない。まあ正月なので近しい大人は親戚であってもいいという話なのだろう。
休日出勤なので、このように面倒なことはさっさと済ませたい。鉛筆を握って父親にインタビューする我が子。
「どうしてその職業に就いたのか」という内容の設問があった。
私は「人々を苦しめる邪悪な存在に対して立ち向かうヒーローになりたかったから」と真顔で答えた。
凍る我が子。
「お前は何を言っているんだ? それを同級生の前で発表する私の立場を忖度しろ」という視線が飛んできた。
次に「その職業に就くためにはどうしたらいいか」という内容の設問があった。
私は「勉強しろ」と答えた。
とりあえずインタビューが終わったので、職場に向かう準備を始める。
「では、行ってくる」と我が子に伝えようとしたら、その隣に妻が座って子供がプリントの内容を修正していた。
「中二...」というキーワードが聞こえてきた。
修正された私のインタビュー内容は、確かに話の筋は違っていないが、当たり障りのない文章として修正が施されている。
これでは私がとても素晴らしい職業人のようではないか。
このエピソードは新たな発見だった。我が子は市役所の職員が向いているのではないかと思った。市議会で部長が答弁するための原稿を作る才能がある。
もっとグレードを上げようと思えば霞ヶ関に勤めることもできる。素晴らしいじゃないか。
深夜に仕事から帰ってきた翌日、どうやら妻と子供が将来の職業について真面目に話し合ったらしい。
カエルの子はカエルと言うけれど、子供としては親の背中を追いかける傾向がある。嬉しくもあり、心配でもあり。
以前、我が子には私と同じ職業は無理だと伝えておいた。気がつくと転送されてきた人たちばかりの職場なので、望んで就職することは難しい。
その苦労を我が子に経験させたくもない。
ところが、妻と子供が色々と考えたり調べたりして、よく似た職業を見つけてきた。ああそうか、それなら確かに納得できる。
私立中学の入試だけを目標にするよりは、ずっと先のことを考えた方がやる気にもなる。
それもキャリア教育の重要性の一つかもしれない。