静的な習慣と動的な習慣
かなり高価ではあるが、買うだけの価値はあると思う。近い将来、家の中で本物のロードバイクに乗ってペダルを回さなくてもよい時代が来る気がする。
音や振動、剛性、スペース、フレームへのダメージ等を考えると、スピンバイクの方がずっと気楽だ。
社会情勢によって、ここまで生活のリズムが崩れると、ストレスというレベルを超えて、不思議な世界に落ち込んだような何かを感じる。
人が平凡な毎日を送るためには、本人が思っている以上に多くの要素が必要だということを実感する。
これから先の展開がどうなるのかも見通せないという世の中では、どこかにソリッドな存在があれば落ち着くのだけれど、本当に全てが浮足立っている感じがある。
最近では、この生活録の多くがパンデミックの話だ。この傾向は間違いなく私の頭の中を反映しているわけで、思考の多くがこの事象に影響を受けている。
加えて、マンションの上の階で尋常ではない勢いで走り回って暴れる子供と、その行動を制止しようとしない、いや、制止することが困難になっている夫婦からのストレス。
子育ての現実の一つでもあるが、外出自粛でその世帯の子供の暴れ方がさらに酷くなってきた。海外でも同様の事象が増えているらしい。親が疲労困憊なのかもしれないが、下の階で大迷惑を受けている我が家も疲れている。
不規則なシフトになっている仕事、学校の休校による子供たちの自宅での生活、核家族で妻が出勤する場合の私の在宅勤務、同時に、妻に子供たちを任せて忙しく働く出勤日。
私が出勤する場合には、子供たちを学童保育に預けても行政側としては問題がないと妻に説明したのだけれど、妻としては自分の職場のことを考えると学童保育を利用することは抵抗があるという意見だ。
夫が仕事でも、妻が仕事を休めば子供たちの世話ができるではないかと言われればそれまでだが、共働きでは夫婦ともに職業人だ。
あまり表立って問題にはなっていないようだが、共働きで子育てを続ける世帯への行政からのサポートが足りない。
このようなことを続けているから日本の社会の少子化が進んだのに、まだ分からないようだ。
小学生の子供たちとはいえ、まだ手がかかる。外出自粛といっても、親が同伴で一時的に外に出ないと子供たちだって辛い。
夫婦共働きの世帯において、一方が出勤している場合の在宅勤務は、ワンオペの家庭的保育に該当するはずだ。
その状態で、親が子供の面倒を見ながら、平時と同じだけの仕事量を在宅でこなすなんて、そもそもが不可能だと思う。
なので、子供の面倒を見ながら在宅勤務が捗らなかったとしても、それをストレスだと感じる必要はないことに気付いた。
明らかに不可能な状態で、家庭的保育と在宅勤務を両立させろという職場があったとしたら、それは労働者ではなくて職場のシステムがおかしい。
とはいえ、成果主義が広がっているような状況では、無理を承知で頑張らなくてはならないという哀しさもあるわけで、本当に心の居場所がないような気持ちだな。
仕事においても、家庭においても、ギリギリの状態、いや、すでにリミットを超えて諦観の境地にたどり着きつつある。
では、このモヤモヤした状況を乗り越えるためにはどうすればよいのかと私なりに考えると、最も大きな柱となるのは夫婦仲だな。
お互いに言いたいことがあっても飲み込み、普段は感謝の言葉が出ないような場面でもしっかりと感謝し、愛情を確かめるということは難しくても、お互いに喧嘩せずに過ごす。
夫としての対応としては、妻の提案については反対しないこと。
一方で、夫本人として、どうやって仕事や家庭のリズムを整えるのか。ここがとても難しい。
生きることに疲れたら習慣を大切にし、生きることに飽きたら変化を大切にする。
これが平時での私の考えだったわけだけれど、社会や家庭の状態が目まぐるしく変わる毎日の中で、どんな習慣を大切にすればいいのだろうか。
また、周囲が変化し続けている状態で自分自身に変化を求めると、生きることに飽きたと言っている場合でもなく、さらに自分が疲れてしまう。
しばらく、家の中を眺めたり、散歩をしながら周囲を見渡してみたのだが、都合よく習慣化できそうなことがどこにあるのだろう。
心当たりがあると言えば、一つは、以前から書き続けているブログ。
いくつか立ち上げたブログたちは続けていて面倒になったので、全て閉じてしまった。
今、残っているのはHYPSENTのみ。
このブログの場合には、誰かに読んでもらおうという意図ではなくて、五十路を前にもの凄いスピードで流れていく時間の中で、その時に何を感じて考えたのかをネットの片隅に記録しておこうという感じで始めたはずだ。
ほら、中年親父になると、すでに記憶が怪しくなってきている。この生活録の時期を遡ってみれば、その時に何を感じていたのかをトレースバックすることができるというわけだ。
頭の中を文章に記すという静的な活動においては、このブログを続けることが習慣になるな。
もはや自分の周りを取り巻く環境は変化し続けて、ソリッドな存在は見当たらない。自分の心の中を落ち着けるためには、自分の中で何かの習慣が必要になる。
まあ、シンプルと言えばシンプル、場当たりと言えば場当たりな対応だな。
次に、動的な活動においては、スピンバイクを回し続けることが習慣になる。これはいくつかある選択肢から取り分けるというよりも、これしか手段がなさそうだ。
ジョギングはあまり好きではないし、マスクを付けて走るなんて不快で仕方がない。雨の日はどうするんだという話にもなる。
スピンバイクがなかったとして、固定ローラー台にロードバイクを取り付けてペダルを回すことができたのかというと、平時ならまだしも、この状況では長く続かなかったと思う。
今までに何台ものローラー台を購入して使ってみたのだけれど、マンションのような集合住宅では、さすがに音や振動が気になる。
外出自粛が続いている状況ではご近所への迷惑についてさらに気を遣う。上の階の世帯のように、他の世帯の迷惑をあまり気にしないような人なら別だが。
現在ではZwift対応のスピンバイクの国内価格は50万円程度と高額ではあるが、間違いなく需要が増えて低価格化すると思う。
それくらいにスピンバイクの静音性や剛性、耐久性等は素晴らしい。
現在使用しているパワーマジックは15万円くらいだったが、ホイールを買うよりもずっと意味のある買物だった。
ただ、室内トレーニングを続けている人たちの路線と違うのは、私がスピンバイクに乗って「禅」を続けているということくらいだろうか。
Zwiftはとても楽しいという話をたくさん見聞きするので、おそらく楽しいはずだけれど、ペダルを回しながら思考を止めたり、自然と浮かんでくる様々な悩みなどが消えるまで漂わせてみたりと、動的ではあるが静的でもあるという不思議なリラックス効果がある。
しかも、大変興味深いことに、平時から回し続けていたスピンバイクだが、世の中の変化や家庭でのストレス(といっても、その多くは上の階の世帯とのトラブルだが)が最高潮に達した時期には、スピンバイクに乗る気力さえ失われていた。
普段から続けていた習慣のリズムが崩れたことで、私の疲れはさらに大きくなったということだな。
室内トレーニングでよくある話かもしれないが、ローラー台やスピンバイクが自室にあって、レーシングパンツと靴下を身に着けて、あとはビンディングシューズを履けば済むという準備でさえ面倒になってしまうことがある。
実走に比べれば大した手間でもないはずだが、起床してすぐ、あるいは夜に帰宅した後でのトレーニングでは、靴を履くことさえ面倒になり、「まあ、明日でいいかな」と逃げて習慣が崩れる。
これはいけないなと思ったので、SPD-SLのペダルをフラットペダルに変換するためのプレートをポチる。
休日はともかく、平日の短い時間であれば、パンツ一丁の裸足というスタイルでスピンバイクを回そう。これはこれで解放感があっていいな。
酔っ払って全裸でペダルを回すことがないように気を付けたい。
それにしても、最近の私のサイクルライフでは、買物の勢いが落ちてきて、父親のささやかな趣味という感じになってきた。
まあ、このような出費だって、月単位で請求がやってくるとボディブローのように効いてくるので油断はできないが、我慢し続けても仕方がない気がする。
けれど、ああ、そういえば、下の子もタブレット端末で学習したいということで、i-Padを増設した方がいいんじゃないか的な家族の雰囲気が漂っているな。
ここまでの巣ごもり対応において、「ああ、そういえばこれが足りなかった」とか「今まで我慢していたけれど、そろそろこれも揃えておくか」というペースで家庭のために支出する金額がかなりかさんでいる。
何だか閾値を超えてしまっていて、クレジットカードの明細を確認することが恐怖だ。まあ、この社会の変化を乗り越える上で、私の場合には家族の存在がとても大きい。
妻や子供たちに感謝せねばならないな。
さて、生活録を残すという習慣が済んだので、これからスピンバイクを回そう。