小部屋的なブログの落ち着き
それがなぜなのか分からないが、妻がキレることがほとんどなくなった。平時は構ってくれることが少なかった子供たちが、在宅勤務をしている最中も構ってくれるので仕事にならない。
とはいえ、私自身は外出自粛があっても仕事の必要があれば職場に通っているので、必ずしもステイホームな人ではなかったりする。
「なんたることだ!」という批判には当たらない。必要だから出勤しているだけのことだ。
普段は人であふれかえっている駅や電車の中は、まるで映画や小説のパラレルワールドに落ち込んだかのように人が少なく、違和感どころか絶望感を覚えた。
再び通勤ラッシュが始まれば、「ああ、いやだ、浦安から引っ越したい」と嘆き続けるはずだが、環境の変化に自分が対応できていない。
しかし、途中から慣れた。
この点だけを切り取って考えれば、通勤地獄で精神を擦り減らしていた私には、通勤についての療養やリハビリに繋がったのかもしれないな。
その他に変わった点としてはたくさんあり過ぎるわけだが、多くの人たちが感じているであろうことがある。
それは、剥き出しになった個人の内面が、ネット、とりわけツイッター上に吐き出されたことだと思う。
以前から、ツイッターとヤフーコメントには、かなり辛辣な投稿が続いていたわけだが、政治的あるいは思想的な色を帯びた内容に加えて、人々の不平不満が渦巻いている。
私はいつも感じるのだけれど、ツイッターを利用しているユーザーは、なぜツイッターを使い続けているのだろうか。
即時性に優れていて、暇つぶしとしては重宝するかもしれないが、膨大な人たちの心の中が投げ込まれるような沼の中で泳いで、それが心地良いのだろうか。
ヤフーコメントの場合は性質が違っている気がする。
日本的なジャーナリズムに近い気がするが、これが趣味になっている人たちがたくさんいるのだろう。
ツイッターにしても、ヤフーコメントにしても、自らが発するメッセージに対して他者から反応があると、自らの存在を確かめることができるとか、そういった満足感があるのだろうか。
この状況を眺めていると、まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸の名シーンのようだな。
糸一本でぶら下がり、人々の怒りや苦しみが沸き返る地獄を見ている気持ちになる。まあアクセスを絶てば楽になれるわけだが。
ヤフコメはさすがに難しいけれど、ツイッターに関して言えば、浦安市内のユーザーを特定することは難しくない。
人によっては、どこの地区の誰というところまで分かったりもするし、実際に会話したことがあるユーザーもいる。
リアルな場面では穏やかな人がツイッター上で罵詈雑言を吐き続けていたりもするし、逆にリアルな場面では相容れないと感じた人がツイッター上では想像以上に思慮深くて純粋だなと感じることもある。
個人ではなくて社会において気づいたこともある。
大手の新聞社のサイトは、社会に対するメッセージ性が強い記事が完全公開で、好奇心をくすぐったり心が穏やかになるような記事が課金制になっていることが多い。
ヤフーやライブドア、ニフティ、goo等が運営しているニュースのまとめ系のサイトは、自分たちで記事を用意せずに、他社のメディアからの記事を引用していることがほとんどだ。
どうしてこれらのサイトに強烈な社会性を帯びた記事が並ぶのか、大して気にしたことがなかったが、新聞社が無料で公開している記事を引用すると、結果としてそのようなスタイルが出来上がるということか。
ネットユーザーとしては、各新聞社のサイトを巡回したり、それぞれのサイトと契約して記事を読むことはほとんどないと思われる。
適当にニュースをピックアップしてくれるサイトは便利だが、ニュースサイトの情報が疲れる理由も分かる。
さらに、ニュースのまとめ系サイトは、大手新聞社の記事だけでは足りず、週刊誌やスポーツ新聞、ビジネス誌、個人のブログまでを引用して並べる。
これらのメディアにも興味深くて勉強になる記事が掲載されたりもするが、最初に主張ありきの政治的あるいは思想的に偏った内容があったりもする。
まるで闇鍋のようだな。
結果、現在のような社会状況では、読むだけで疲れるネタであふれたサイトが並ぶということか。
テキストベースの長文ブログを続けている私が言うのもおこがましいが、ツイッターやニュースサイトといったネット上の情報は、脳を疲れさせてしまうな。
可能な限りそのような情報を見ないことが、このストレスフルな状況を耐える上で個人的には大切だなと思い始めた。
生活の上で重要なことは、浦安市の公式サイトを見れば分かるし、パンデミックに関する情報はグラフやテーブルといったシンプルなデータが掲載されているサイトだけで十分だ。
それ以上の情報を頭の中に入れようとしたところで、気を付けることは決まっているわけだし、大して行動が変わるわけでもない。
テレビについては言及することさえ省略したい。
しかし、完全にネット断ちをするわけではなくて、最近になって楽しんでいることがある。
それは、ネット検索でほとんどヒットせず、アクセスさえあまりないような個人の日記的なブログを訪れること。
とりわけ、新幹線通勤とか、家庭菜園とか、ある程度のテーマはあるのだけれど、基本的には自らの経験や内面を素朴なまでに書き綴っていて、顔が見えなくても、文章だけでどのような人なのかが分かるブログがいい。
何気ない街の話とか、そういった内容について淡々と日記を続けているようなブログはとても面白く、気持ちが落ち着く。
そういったブログは、デザインを見てもよく分かる。
どれを見ても同じように見える今風のレスポンシブデザインではなくて、星が散りばめられていたり、花が飾られていたり、チェック柄だったりと、クラシックで味わいのある昔風のデザインが多い。
ネット検索ではなくて、エキサイトブログとかFC2ブログのトップページ、あるいはブログランキング等から探す形になるので、なかなかアクセスしづらいのだが、いざ魅力的なブログを見つけた時の心躍る感じが楽しい。
ネット黎明期に楽しんだ小部屋的な雰囲気があって、思わず「素敵ですね。ありがとうございます」とコメントを送りたくなる。
一方、それは私の好みでしかないけれど、一つのテーマに特化しすぎていて、ブロガーの内面が何も見えてこないサイトは気持ちが悪く感じる。
例えば、投資といった金儲けや自転車等の趣味についてのアフィリエイトサイト、あるいは街づくりや政治活動等といったテーマのサイトでこのスタイルが多かったりもするが、書き手の近況やプライベートなことが全く紹介されない。
投資や趣味といった内容でアフィリエイトサイトを運営して、そこで広告収入を稼ぎたいというユーザーについては気持ちが分からなくはない。
職場に内緒で副業をやっていることがバレたりしたら困るということで、プライベートなことを書かないように気を付けるとか、そういった意味合いがあるかもしれない。
また、ネット上では自らをより良く魅せたいという気持ちが強くなるようだから、自らのアピールになるような得意分野だけを前面に押したいという気持ちも分からなくはない。
一方、私なりに意味が分かりかねるのは、街づくりについて情報を発信しているけれど、運営している人の背景が分からないサイト。
そのようなサイトの場合には、何らかの意図があってブログを運営しているのではないかと感じてしまうからだ。
しかしながら、長期間にわたっていくつかのブログを運営していると、自らの内面や近況、プライベートといった話を書きたくない理由も分かる。
私は以前、月間のアクセス数が1万5千ページビュー程度のサイトを運営していたことがあったのだが、サイトのアクセス数を高めるには、ある程度のコツがある。
写真をたくさん掲載するとか、内容を総括するような長いタイトルを付けるとか、文字数をたくさん書くとか。
そのようなサイトでは、取り扱うテーマの柱を決めたら、そこから内容がブレない方がアクセスが高くなったりする。
Googleのアルゴリズムの中で、そのようなサイトの検索順位を上げるようなルールがあるのだろうか。
「子育て」と「ロードバイク」という柱を決めたら、その柱から外れたエントリーは載せない。
そして、子育てとロードバイクについての情報が知りたいネットユーザーたちの好みに合うようにネタのようなエントリーを投下し続けるわけだ。
とりわけ、ネット検索によってブログに流入してくるユーザーが欲しているのは「情報」であって、そのブログを運営している人がどのような人なのかは関心がない。
情報を得たら、さっさとどこかのサイトに移動してしまう。
感謝なんてほとんど返ってこないし、逆にツイッターやメッセージで絡んでくる輩も珍しくなかった。
ネット検索による流入とアクセス数を稼ぐ上でポイントとなるのは、人の「我」と「欲」に関係するテーマの設定だな。特に説明するまでもない。
サイクル関連で言えば、他者が欲しているパーツや用品について実際に使ってレビューをしている記事はアクセス数が高くなる。
身銭を切って趣味の品を手に入れようとする場合、往々にしてできるだけ多くの情報を集めようとする。
他のブログと内容が重複していても構わない。
ロードバイクサークルを運営していたりすると、そのサークルに入会するわけでもないのに、新しいルートあるいはグルメスポットを知りたいだけのサイクリストがたくさんアクセスしてくる。
それ以外にも人が困った時に手っ取り早く手に入れたい記事もバズりやすい。
子育てにおいても、「どうすれば育児中にロードバイクに乗ることができるのか」といった話にはアクセスが集まる。
独身時代にロードバイクに乗っていて、結婚して子供が産まれてロードバイクに乗ることができなくなった。さあ、どうしようかというシリーズ。
それと、育児中に雨や炎天下で子供を外で遊ばせることができないと、父親になったばかりの男性は困ってしまう。妻だって新婚時代のように優しくなくて苛立っている。さあ、どうしようかというシリーズ。
結論から言えば、「自分で考えろ」という話になってしまうのだが、困っている人を突き放さずに、一緒になって考える。そういった人がネット上にいたっていいじゃないかと思った。
けれど、世の中は慈善だけでは成り立たない。
ネット検索で記事が上位にヒットすると、そのネタを真似するアフィリエイトサイトが出てきたり、引用と言いながら無断で画像を流用するキュレーションサイトに狙われたりもした。
キュレーションサイトに画像を無断流用されたので、実際に運営会社に警告したら、一文字何円で記事作成を依頼したアルバイトの仕業だと分かって唖然とした経験が何度もある。
古くさい昭和の男で恐縮だが、金とは自らの労働の対価として得るものだ。ネットの広告で小銭を稼ぐのは人の勝手だが、他者のものを無断で使うことは気に入らない。
また、ある程度の期間、ブログを運営していると、定期的に新着記事を見てくれるユーザーが増えてくるわけだけれど、そういった人たちは、アクセスすることが習慣のようになっていて、一度読んだタイトルは二度と読まないことが多い。
この習慣性は思ったよりも強いらしく、ふと心に隙間ができた時に立ち寄ることができる奥まったバーのように、アクセスしてくれるユーザーに対して常に新しいネタを用意しておくという心がけが必要だったりもする。
そして、膨大な数の人たちが自らのブログにアクセスしてくれた結果として、ある程度のリアルな繋がりも生まれたわけだけれど、そのブログを閉じた後には、ほとんど何も残らなかった。
ということで、HYPSENTでは、これまでと真逆のことを続けている。
サイトの滞在時間を増やす手段でもあるアイキャッチ画像なんて、絶対に載せない。
それにしても、アフィリエイトを目的としているわけでもないのに、過去の私はどうしてアクセス数を気にしていたのだろう。
ブログのページビュー数を眺めていると、自らの存在価値をできるだけ多くの人たちに認めてもらおうという欲求が高まってくるのかどうか分からない。
ネット上に小瓶を流せば、リアルな世界で素晴らしい出会いがあって、有意義な人生を送ることができると信じていたのかもしれないな。
ただ、多くの人たちが必要としていたのは「使える情報」、あるいは本人の欲求に触れるような「暇つぶし」であって、誰が書いたのかなんて興味がなかった。
一時期に流行したブログブームはSNSに移行し、主を失って二度と更新されないであろう膨大な数のブログが卒塔婆のようにネット上を漂っている。
ブログを続けるよりも、常に誰かに向けて気持ちを発信することができるツイッター等のSNSは、人の心の中の寂しさを埋めるには適したツールなのかもしれない。
だが、美しい女性が顔出しで登場するとか、ネットだけで自称年収ウン千万円とか、苦労して漫画を描いているとか、そういったアカウントを除いて、他者は本人が思っている程には関心を持ってくれてはいない。
メッセージを発信しても読んでくれているとは限らないし、多くの人たちはその現実を認めたくはないことだろう。
しかし、膨大なネットワークに繋がっていても充たされない孤独感を覚える度に、その気配を感じているはずだ。
...と、少しポエム調な考えに至る。
では、私が最近になってネット上をウロウロして見つけては喜んでいる日記調の小部屋的なブログはどうなのか。
「そんな細かいことはどうでもいいんだよ」という感じで、淡々とログが積み重ねられていく。迷いもないし、気負いもない。
本人がブログを続けていて、最も気楽なスタイル。だからこそ長続きするのだろう。10年くらいの継続歴なんて全く珍しくない。
そのようなサイトにアクセスして書き手の世界観に浸って、思い出した頃に再びアクセスすると、そこには素朴なエントリーが追加されていたりする。
何のためにブログを続けているのか。他者を意識せずに当時に思ったことをネット上に残しておけばいいのだなということを学ぶ大切な機会になった。
その観点で自戒すると、HYPSENTは私自身が書いていて最も気楽なスタイルだけれど、他者に和んでもらうような状態ではないな。まるで遺書だ。
子供の頃から好きな芥川龍之介の作風をトレースしながら、自分自身の悩みや苦しみの原因を突き詰めて文章に残しているだけの生活録だ。
これでは、偶然にも訪れてくださったユーザーがドン引きしてしまうことだろう。
もっと短く、もっと明るく文章を書くこともできたりはするが、自分を偽っている感じがあって疲れる。
それなのに、他者が綴った素朴で穏やかなブログを探してまわるなんて、何だか矛盾しているな。
おそらく、この世界にはネット検索で上位にヒットしない、あるいは検索エンジンからも無視されているような隠れ家的なブログがたくさんあるのだろう。
昨今の流行ではないのかもしれないが、なかなかアクセスすることができないだけに、逆に出会えたことの楽しさがある。
興味は尽きない。