2020/05/13

ロードバイクで28Cのタイヤ

朝、目を覚ますと、それまで何日も考え続けていたかのように頭の中でアイデアが整理されていて、スマートフォンで通販サイトにアクセスし、サイクル用品をポチる。おそらく寝ている間に脳が動き続けていたのだろう。


注文したアイテムは、「28C」という種類のタイヤ。数字のごとくタイヤの幅が28mmあって、ママチャリと比べれば随分と細いが、ロードバイクのタイヤとしてはかなり太い。

この前、ロードバイク用の短めのステムを購入し、クロスバイクのように上下を逆にしてアップライトなポジションにしてみたわけだが、まだ一度も乗っていないのにそのシルエットの違和感に閉口してしまった。

これはさすがに違うと思って、ステムの上下を戻し、「よし、これでいいや」と満足して眠った翌朝のことだった。

なぜだか分からないが、28Cの太いタイヤをロードバイクに取りつけたくて仕方がない。

もしかして、ここまで絶好のサイクリング日和が続く初夏にライドを我慢し続けて、もはや破滅的な欲求に突き進んでいるのだろうか。

ロードバイク乗りでないと何の話か意味不明かもしれないが、私がロードバイクに乗り始めた11年以上前は、「23C」という細身のタイヤが一般的だった。

その後、サイクルメディアやサイクル業界が中心となって、「25C」という太めのタイヤが推奨され、「快適性が上がる」とか、「転がり抵抗が少ない」とか、様々な宣伝がなされた。

タイヤが太いといっても、たった2mmの幅なのだが、それでも違ってくるところがロードバイクの奥深さだな。

「25Cは素晴らしい」という流れに乗るサイクリストがいて、「23Cの方が速いよ」というサイクリストがいて、最終的には用途や好みの問題になっていたりもする。

サイクル業界としては新しい需要と供給の機会が増えるだろうという目論見が透けて見えるし、技術革新や安全性の向上といった都合も分かる。

メーカーからの広告費、あるいはデモ品によるインプレッション等を考えると、サイクルメディアがメーカー側の意向を強く受けてしまうことも仕方がない。

そのような変化に乗る人もいるだろうし、嫌になってしまう人もいることだろう。

私なりの考えとしては、ロードバイクという趣味性の高い乗り物では、メディアやユーザーレビューよりも実際に自分で試した経験則の方が頼りになる。

また、リムブレーキ前提の鋼鉄フレームに手組ホイールをアッセンブルしているような愛車においては、もはや流行とは無縁の状態なわけで、いいなと思えば試したり、最初から規格外だと諦めたりもしている。

先ほどの23Cタイヤと25Cタイヤの議論としては、実際に様々なホイールに両者のタイヤを取り付けて走ってみたわけだけれど、その軍配は走り方や路面、さらにはサイクリストの感じ方や考え方によっても違うことが分かった。なるほど、意見が分かれるわけだな。

私感だが、河川敷沿いの整った道路を走る場合には、23Cの方が速く楽に走ることができる。「楽」という表現は、踏めば進むという意味であって、快適かどうかというとあまり快適ではない。ゴツゴツと路面の振動が伝わってくる。

一方、グレーチングや舗装の継ぎ目があったり、砂等が広がっていることもある一般の車道を走る場合には、23Cよりも25Cの方が頼もしい。

25Cの方が加速が遅い感じがするが、ある程度の慣性が付くとあまり気にならなくなる。

25Cのタイヤで走ると、路面の細かな振動をタイヤが吸収してくれる快適性を実感することができる。23Cの場合には気楽に突っ込めない段差等も容易にパスすることができるし、コーナリングも頼りがいがある。

私なりには、快適性を後回しにして疾走したい時には23C、よりストレスなく長距離を走りたい時には25C、今では出場しないがレースの場合にはコースによってタイヤを使い分けるという判断になるのだろう。

このようにサイクル用品を交換して楽しむのも、ロードバイクという趣味の魅力だったりもする。

では、25Cよりもさらに太い「28C」というタイヤについてはどうなのか。今ではもっと太くなってきたが、28Cはクロスバイクの完成車に標準仕様として取り付けられていることが多かった。

最近のクロスバイクでは、32Cや35Cといったさらに太いタイヤが標準仕様になってきて、クロスバイカーの中には、その状態から25Cとか28Cといった細身のタイヤに交換することがよくあるらしい。ロードバイク沼にはまる一歩手前だな。

ロードバイクにおけるタイヤ幅の流行についても変化が生じていて、最近ではエンデュランス系のロードバイクの完成車において28Cがチラホラと標準仕様となってきている。

「Endurance」という単語は忍耐とか我慢という意味なので、本来ならば「Comfort」という表現の方が適しているが、市場でのマーケティングを考えると、コンフォートよりもエンデュランスの方が何だか格好がいいという都合なのだろうか。

ただ、この流れは間違っていない気がする。むしろ、ポタリングやツーリングを目的として、32Cや35Cのロードバイクがあってもいいじゃないかと私は思っていた...いや、そうか、だから最近になってグラベルロードというジャンルが生まれていたりもするわけか。

もはやロードバイクとクロスバイクとマウンテンバイクの境目がよく分からなくなってきて、それはそれで面白い。一方で、私がクロモリ製のクラシックなロードバイクに乗り続けることに変わりはない。

ということで、就寝中の無意識下において、すでに何を買うのかまで決めていた私は、コンチネンタルのGrand Prix 4-SEASONの2本セットをポチる。

一般的に、コンチネンタルのタイヤといえばGrandPrix 4000、最近ではGrandPrix 5000が定番かもしれないが、耐久性を考えると4-SEASONが素晴らしい。

また、正規輸入品として4-SEASONのタイヤを購入する場合には、自転車デポが最強だなといつも思う。最初の頃、とても安いので心配になったが、実際に届いた製品は問題なく使うことができる。

次に、28C用のチューブ。今まで使っていたコンチネンタルのRace 28というチューブは、全くパンクを経験したことがないくらいに信頼性が高いわけだが、25Cまでのタイヤサイズまでしか対応していない。

Race 28には、さらに太いタイヤに適応する「Race 28 Wide」というチューブがあるそうなので、それもポチる。

しかし、「このロードバイクに28Cという太いタイヤが入るのだろうか?」と注文した後で気になった。

フレームの仕様を確認したところ、28Cのタイヤが最大値になっていて安心した。

しかし、「このブレーキキャリパーに28Cが入るのだろうか?」と再び気になった。

シマノのBR-8000は、28Cのタイヤまで使用することができるようだ。なるほど、シマノとしては、新型アルテの設計段階で、すでに昨今の28Cタイヤの導入について想定していたのかもしれない。

しかし、「この手組ホイールに28Cが入るのだろうか?」とさらに気になった。

手組ホイールのリムにはMAVICのオープンプロを使用している。28Cまでは対応しているようだ。

夢の中で思考を続けていた私は、睡眠という動物に与えられた無意味にも思える退屈な休息の時間の中で、28Cタイヤについてありとあらゆるシミュレーションを行っていたようだ。

ノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹博士が、夢の中で中間子論を着想したという話は有名だが、そこまでの夢力があれば、私はもっと立派になっていたことだろう。

なにせ、夢の中でひらめいた内容が自転車のタイヤなのだから情けない。

ともかく、注文した28Cのタイヤの到着を楽しみに待つことにしよう。

それにしても、私は、どうして眠っている間に28Cのタイヤに交換しようと考えたのだろう。ソロであっても実走ができないような状態なのに、そこまでの必要性がない。

おそらく、コロナ関連の社会情勢の中で、何としてでもロードバイクの実走に出かけたいという気持ちが高まって、寝ている間に色々と考えていたようだ。

2020年5月14日。

39の県で新型コロナウイルス対策の特別措置法に基づく緊急事態宣言が解除された。この状況に関連した情報が多すぎて、もはや一般市民としてはフォローが難しくなってくることだろう。

学校も6月から再開する見通しが出てきて、難しいことはよく分からんが、とにかく外出自粛の我慢が楽になるぞ的な雰囲気が日本全国に広がっている気がする。

緊急事態宣言が解除されていない都内においても、人通りが増えてきた。もはや、経済も人々の心も我慢の限界だと思うので、仕方がない。

今回のパンデミックでは、難しい内容を分かりやすく説明することができる人材が足りないと思う。もちろん、専門家としては可能な限り分かりやすく説明しているのだが、もう一段階くらいテレビや新聞が分かりやすく説明することができたなら、社会の不安や混乱も減ったはずだな。

政府の専門家会議の記者会見の動画を眺めて、「ふむふむ、なるほど、そういうことか」と理解するには、大学院の博士課程レベルの知識や教養が必要になってくる気がする。

その内容をメディアが聞き取って記事や番組にするわけだけれど、メディアの人たちだって大変だ。最前線の専門家が話す内容を完全に理解することは難しい。

緊急事態宣言の解除が近づくと、「新しい生活様式」とか「ハンマー・アンド・ダンス」といった言葉まで出てきて、重要なフレーズではあるのだが、さらに分かりにくくなった。

The Hammer and the Danceという考え方は、3月末にTomas Pueyo氏が提唱して、日本の専門家が使い、それが政府の方針にまでなったようだ。

新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起きた状態では、積極的介入によって新規の患者の発生を抑制する。ハンマーという表現は、この積極的介入を表現している。患者の増加のピークをハンマーで叩いているように見えるからだろう。

この場合の積極的介入とは何かというと、都市封鎖であったり、外出自粛といった対応に相当する。

何のために積極的介入を行うのかというと、感染の拡大を抑制したり、医療崩壊を防ぐという目的がある。

ハンマーに続く「ダンス」という表現が分かりにくい。

社交の場でダンスを踊ることが多い欧米人であればイメージがつくだろうけれど、日本人にとってダンスといえば、クラブでの密集したダンスとか、阿波踊りやよさこい踊りを想像してしまうかもしれない。何だそれはと。

この場合のダンスとは、持続的介入によって感染を抑え込むという取り組みのことだ。

持続的介入とは何かというと、都市封鎖や外出制限といった厳しいことをせずに、個人が手洗いやマスクの着用を心がけたり、人の密集を避けたりと、感染症に気を付けながら人々が生活を続けること。

新型コロナウイルス感染症が完全になくなる日は遠いこと、あるいはその日が訪れない可能性を覚悟する必要がある。

ピークが過ぎた後、必ずしも排除できないウイルスとの間で人々がダンスを踊るかのように時を過ごすという表現なのだろう。

相手が足を出せば自分の足を引き、自分が手を伸ばせば相手が手を引くというイメージだろうか。

積極的介入の後に持続的介入に移行せざるをえない理由は明白だな。

ハンマーばかりで感染症を叩いていると、経済はさらに傾き、人々の生活も抑圧されてしまう。

ある程度のところで、新型コロナウイルスと共存しながら生きるという覚悟が必要になってくる。

ハンマーによって感染者数が減り、人々の行動制限が緩くなると、この感染症が再び広がり始めることは想定しうる。できる限り感染の拡大を減らすことができように、今までとは違った生活の形が必要になる。

ハンマー・アンド・ダンスの「ダンス」の部分を日本風に置き換えたものが、「新しい生活様式」という意味になるのだろう。

日本人にとっては、ハンマー・アンド・ダンスというよりも、「モグラたたき」という表現の方が分かりやすいかもしれないな。

患者をモグラに例えているわけではなくて、ウイルス感染の発生をモグラに例えると、所構わず一気にモグラが出続けていたステージが、感染拡大のピークだったわけだ。

ゲームなら楽しめるが、感染症はゲームではなくて時に命がかかっている。

その後、モグラが出てこないと安心するのではなくて、常にどこかから出てくると警戒しながら生活するという形になる。

その間に治療法を確立したり、ワクチンを開発したりと、感染症との戦いが続く。できる限り医療現場の余裕を確保すれば、救うことができる人の数も増える。

と、ここまでは分かったかのような書き方をしているが、その後の展開は分からない。

マスコミ等の報道を見る限り、外出自粛の解除に伴って第二波がやってくるという内容がとても多い。

社会を煽るようなニュアンスはあまり適切ではないと私は感じているが、自粛解除によって多くの人たちの気持ちが緩んでしまう状況を考えると、こうやってリスクを伝えてくれた方がいい気がする。

一方で、メディアが社会を過度に緊張させてしまったという観点は無視できないわけで、人々の心がどのように感じるのか。

自治体レベルの取り組みは、全体としてみるとかなり積極的だと感じるが、途中で息切れしないように、これからの長いステージを見越しておく必要もあることだろう。

一時期は感染者数が多くなりすぎて上手く機能しなくなってきていたクラスター対策が、再び新しい生活様式の中で必要になってくるかもしれないが、医療現場を含めて形勢を立て直して、第二波に備えるという考え方が大切だと思う。

では、新しい生活様式を取り入れ、続いてやってくるであろう感染拡大の波を乗り越え、その後に何が待っているのかという話だが、このウイルスが社会に定着するのではないかという雰囲気が伝わってくる。

その可能性を明言してしまうと、ここまで耐えてきた人たちの心が壊れてしまうかもしれないし、かといって感染症を制圧することができるという確証も現時点では少ない。

エイズにしても、インフルエンザにしても、感染症自体は未だに駆逐されずに社会に定着してしまっている。今回の新型コロナウイルスについても、人間の社会に溶けてしまうのではないかという指摘が珍しくない。

エイズやインフルエンザによる感染症と、新型コロナウイルスによるそれとを同じレベルで考えることは難しい。

むしろ、新型コロナウイルスを他の風邪のウイルスと同じように考えると分かりやすい。

この感染症が広がり始めた時期から、「集団免疫」というフレーズが目立つようになってきたが、要は、多くの人たちが新型コロナウイルスに感染して免疫をつけてしまえば、この感染症の広がりは収まるというロジックだ。

しかしながら、集団免疫というものは70%ぐらいの人たちが感染しないと上手く機能しないと私は考えていて、それまでに感染する人たちはどうなるのかという話になる。

風邪について考えれば分かりやすい。ずっと先の話だが、新型コロナウイルスにおいても、他の風邪のウイルスのように子供の頃にかかって熱が出る程度、大人はすでに感染して免疫を持っているという将来がやってくるかもしれない。

では、子供たちに風邪を起こす他の4種類のコロナウイルスが社会からなくなったかというと、なくなっていない。今でも普通に流行している。

けれど、これらのコロナウイルスに対して多くの大人は免疫があるので、問題にならないし、その存在すら意識しないことだろう。

新型コロナウイルスについても、この状態になれば理想的ではあるが、それまでが大変だ。

また、高齢者や基礎疾患を有している人たちにとっては、集団免疫を気長に待つ気持ちになれるはずがない。私が同じ立場だったら、きっとそう感じることだろう。

つまり、高齢者や基礎疾患を有している人たちといったリスク群においては、局所的な感染症の封じ込めによって感染の拡大を防いだり、新規のワクチンや治療薬等によって重篤化を防ぐという手段が必要になる。

新規のワクチンや治療薬の開発といっても、容易に開発できれば苦労はない。

また、世界規模のパンデミックの場合には、一部の国において新型コロナウイルス感染症の封じ込めに成功したと言っても安心することはできない。

他の国で感染症が残っている状態では、感染者が国内に入ってくることを完全に防ぐことは難しい。

この感染症の拡大を完全に防ごうとすれば、他国との関係を遮り、国内においても様々な自粛が必要になってくるはずで、そうなると感染症自体のダメージよりも経済的あるいは社会的なダメージの方が大きくなる。

とどのつまり、このウイルスは社会から完全に排除されず、毎年のように流行するという形になることが予想される。

しかしながら、このような考察が現時点での主たる考え方ではあるのだが、どうも不思議なことに気付く。

新型コロナウイルスは、分類学上は「SARS-CoV-2」と呼ばれている。「SARS-CoV」とは、Severe acute respiratory syndrome coronavirus の略だ。日本語に訳すと重症急性呼吸器症候群コロナウイルスという意味になる。

そして、新型コロナウイルスは、SARS-CoVの2型という分類になっている。ゲノム配列に基づいた相同性の分析からも明らかだ。

では、SARS-CoVによる感染症、つまりSARSが流行した時はどうだったのかと振り返ってみる。

今回のパンデミックにおいて、韓国や台湾の対応がとても早かったのは、実際にSARSが発生して被害を受けたという教訓があったからなのだろう。

日本においてもSARSへの対策が検討されたが、実戦を経験していない。その間にも感染症対策に関わる人員や予算は増えなかった。

島国だからこその国境というバリアーが日本の強みだったのだが、航空機が人を乗せて楽々と飛び越えてしまった。

日本国民にとってのSARSは、あくまで外国で流行したことがある感染症という理解が多いと思う。

世界を舞台としたSARSの封じ込めにおいて実戦を経験したことがある日本人の研究者たちが、現在の祖国の専門家チームのキーパーソンとなって尽力してくださっている。

色々と批判を受けることはあるが、彼らがいなかったら、日本はさらに大きなダメージを受けていたことだろう。

また、コロナウイルスとの戦いにおいて、いきなりの実戦になった日本ではあるが、限られた人員や設備の中でどれだけ健闘しているのかは、他国との死者数を比べれば分かる。

この現状は、他国からは日本の奇跡と呼ばれたりもするのだが、必ずしも行政が秀でていたわけではなくて、厳しい都市封鎖を実施しなくても自らの行動を変えることができた日本国民の取り組みの成果だと思う。

あまり尊大になってしまうのは良くないし、テレビでは日本のことが悪く言われたりもするが、私たちはもっと自信を持った方がいいと思う。

では、SARSの時はどうだったのかを考えてみる。

今、世界でSARSが流行っているのかというと、実際には発生が認められない。

国によっては甚大な被害が生じたが、感染者が一気に増えてピークを越えた後、途中から減少傾向に転じ、ついには感染症自体が認められなくなった。

新型コロナウイルスであるSARS-CoV-2は、SARS-CoVよりも感染力が高く、軽症あるは無症候で感染するといった特徴がある。

そのため、正確な比較は難しいのだが、SARSが広がった時の新規患者の増減のデータと、SARS-CoV-2が広がった時の新規患者の増減のデータを比較してみると、不思議なパターンの類似性に気付く。

マスコミによる報道、もしくはネット上での専門家たちの見解を眺めてみる限り、この類似性についてあまり議論されているように思えない。

それは当然と言えば当然だな。当初、SARSによく似たウイルス感染症が発生したということで、WHO等はSARSを想定して対応を始めた。

そして、新型コロナウイルス感染症はSARSとは違った性質があるということが分かってきて、SARSとは異なる対応が全世界で執られた。

しかしながら、時間のスケールは新型コロナウイルス感染症の方が長いが、現状の患者数のパターンを俯瞰してみると、SARSにおける患者数のパターンを時間軸で引き延ばしたような感じに見える。

パターンは国によって違うし、日本の場合には過去にSARSが入って来なかったので、直接的なデータの比較は難しい。

だが、両者を経験したことがある国において、患者数を縦軸、時間を横軸にしてプロットしてみると、SARSと新型コロナウイルス感染症のパターンは確かに似ている。違うのは患者数の規模と日数くらいか。

これらの類似性が何を意味しているのだろう。

「新しい生活様式」という表現は、言葉自体は前向きだが、実際には注意と忍耐が必要になる生活様式だと思う。

この生活様式が始まった後の世界というのは、二つの展開が予想されるのかもしれない。

一つは、①新型コロナウイルスが社会に定着して、その制圧が不可能となり、人とウイルスが共存し続けるという展開。集団免疫という概念はこの延長線上にある。

もう一つは、②かなり時間がかかるかもしれないが、新型コロナウイルスの感染者数がSARSの場合のように少しずつ減っていって、最終的には社会からいなくなるという展開。

現時点では①の予想が優勢になっているが、わずかな望みであったとしても②に期待してしまう。

いや、わずかな望みという希望的観測ではなくて、これは現実のデータとして目の前にある。

時間軸を調整しただけで、ここまで新型コロナウイルス感染症とSARSのパターンが似ているなんてことは、科学的に考えてありうることなのだろうか。

もしもSARSと同じように新型コロナウイルス感染症が時間をかけて減り、最後は社会から消えていなくなるという状況になれば、集団免疫を待たずして懸念が消える。

新型コロナウイルスが、風邪を生じるだけの他の4種類のコロナウイルスと同様に社会に定着すれば、かなり面倒な展開になる。

ダンスとか新しい生活様式といった言葉で表現してはいるが、かなり重要なステージがこれから始まるということか。

気持ちが高まる。

なるほど、どうして夢の中で28Cのタイヤに交換しようとしたのか、何となく分かってきた。

医療機関のベッド数に余裕がない状況はまだ続く。新しい生活様式の中では、これまで楽しんできたようなロードバイク生活を続けることは難しい。

ソロのライドに出かけるとしても、落車による怪我や入院だけは避けたい。

それでも、何とかして走ることができないかと、私なりに思案していたということだな。

速度が落ちたとしても、安定して走ることができるようにロードバイクにカスタムを施しておこうと夢の中でさえ考えていたらしい。

緊急事態宣言が解除されたら、荒川も江戸川も河川敷は人であふれるはずだ。

感染が怖くて走る気になれないし、マスクを付けた部分だけが日焼けをしないというのも格好が悪い。

そうなると、車通りの少ない一般道をのんびりと走ることになる。

タイヤが太くなって安定性が増し、同時にスピードが出なくなった方が、トレーニングとしては好都合ではないかというベクトルだな。

相変わらず神経質な自分自身のことが嫌になってくるが、後ろ向きになりながらも必死に振り返って前を向こうとしている気がする。

このカスタムによって、愛車のクロモリロードバイクはよりクロスバイクに近づいていく。ドロップハンドルが付いたクロスバイクといっても過言ではない。

しかし、もはや実走に出かけること自体が目的になりつつある。

このままでは、新型コロナウイルスにかかる前にストレスで病気になりそうだ。この時期に日焼けをしないなんて、とても不健康に感じる。

なので、走ろう....いや待て、6月が始まるということは....

これから梅雨時期じゃないか。

やはり、濡れた路面での走行を考えて28Cに交換しておくことが正解なのか。いや、それでは落車のリスクを避けるという目的に反する。

台風が多かった昨年に続き、サイクリングを趣味とする人たちにとっては受難の時期だな。

盆栽やベランダ菜園を趣味にしておけば、このような葛藤はなかったことだろう。