子は親の鏡だとは言わないが
我が家の場合には、社会情勢よりも悩まされていることがある。朝から晩まで子供が走り回る階上の家族とのトラブルがさらに深刻さを増していて、親がコントロールすることが難しい状態なのだろうという判断になりつつある。
マンション住まいは本当にリスキーだな。両隣が穏やかな人たちだったので安心していたら、昨年、上の階に子育て中の家族が引っ越してきて、その子供が発する騒音と振動によって酷いストレスを受けている。
まだ小学生になっていない子供だが、この騒音は半端ない。朝の6時くらいから天井の上を走り回り、跳ねている。
躾というレベルではなくて、親としては、きちんとした早期の対応が必要だと思う。
夜遅くまで階上の部屋で子供が走り回ることがあって、睡眠のサイクルが心配になる。
小さな子供が起きているはずがない夜に、どうして走り回っているのだろう。
私の家族の睡眠にも多大な影響を与えている。とくに私の睡眠が浅くなる。
大変な世帯が引っ越してきた。
新浦安民なら分かるはずだが、開園していた頃のディズニーの花火の10倍くらいの激しい音と振動が朝から晩まで続く。
とても普通だとは思えない。親が注意しても走り回ってしまうレベル。むしろ制止すると不機嫌になって暴れるという感じのようだ。
子育ての経験が長くなると分かるが、かなり深刻な状態だと思う。
また、親がその現実を認めていないように感じる。私は訳あって、親の態度が気になる。
早く第三者の助けを借りないと、時間が経てばさらに大変だ。
他の家庭の都合についてとやかく言うつもりはないが、私の世帯は実際に被害を受けている。
ネットでは大変な苦労が散見されるが、まさかマンションの上の階に引っ越して来るとは。
このインパクトは強烈だ。このタイプの子育て世帯が引っ越してきて、近所の人たちがノイローゼになったという話を聞くが、オーバーな話ではない。
けれど、近所の人たちが苦情を言うと、なぜか窮状に理解がないとか、冷たいとか、そういったレッテルを貼られるのか。
迷惑をかけてくる家族に礼儀や謝りがあれば、多少は理解したり、我慢することができそうだが、うちの場合には、逆切れに近い反論を受けたこともある。
静かにしてくれとお願いに行って、その夫からインターホン越しで門前払いされかけた時や、その妻に怒鳴られた時には、さすがに私も心穏やかではなかった。
もの凄い勢いで走り回る子供の姿に驚いたが、この状況で開き直る親の姿にも驚いた。
この子にして、この親かとまでは言わないが、親子なので似るのだろうか。
それにしても....この状況で下の階に人が住んでいるマンションに引っ越すというのは、余程に現実を認めることができていないのか、それとも他者に気を遣うことができないのか。
私の世帯に対して気を遣っているようには感じられず、現状が普通だと信じ切っている気がする。
だからこそ、私の世帯がクレーマーのように鬱陶しく感じることだろう。
私たちが「もう少し静かにしてください」とお願いすると、謝るどころか感情的になるのだから。これで近隣からの理解が得られるはずがない。
ゴールデンウィーク中も仕事を続けて、ようやく休日が取れた。
一時期よりは静かになったが、油断していると、天井からの騒音や振動が朝から晩まで続く。
前日の深夜に仕事から帰宅すると、我が家の様子が変だった。さすがに妻が辛くなって、警察に相談したらしい。
早朝から天井の上で「ドコドコドコドンッ!」と走り回られて、我が家では目覚まし時計が要らない。
決して冗談ではなくて、上の階の子供が走り回るので、その音と振動で目が覚める。明らかに正常とは言えない生活だ。
昼間から夜になるまで騒音と振動が続いている状況で、妻は育児と在宅勤務を続けていたわけだから、とても辛かったことだろう。
「すみません、静かにしてください」と上の階にお願いしても謝らないので、これ以外に仕方がない。
すでに私から2回、妻から1回、わざわざ階上まで出向いてお願いした。
警察としても、これは大変だと真摯で丁寧な態度で対応してくださっている。とてもありがたい。
また、警察としても、住民同士で対処しようとするとトラブルがさらに激しくなるので、むしろ相談してほしいというアドバイスをくださった。
浦安の新町ではよくある話なのだそうだ。
この点は浦安に住んで良かった点だな。町ではなくて、警察の理解が。
浦安の新町に限って言えば、地域の繋がりが薄い上に、我が強い人が多く、さらに仲裁してくれる存在が足りない。
警察の対応にも街の特性が投射されている気がしてならない。他は弁護士くらいか。なんて町だ。
埋め立て地のマンション街では、多くの自治体から子育て世代が移り住んでくる。
まるで数年あるいは10年単位で生活するような長期ホテルのような感じがする。私感だけれど。
地域住民としての帰属意識や横の繋がりが必ずしも成熟しておらず、互いに気遣いがなかったり、ひとたび火花が散れば大きなバトルに発展したりもする。
区画整備された美しい街並みが広がっているからといって、新町の人たちが美しい人間関係を保っているかというと、それは虚像でしかない。
ペット禁止のマンションで犬を飼っている人がたくさんいるし、信号無視なんて日常茶飯事。我が強い人が多い。
けれど、互いに距離を取って生活する分には、この街の人間関係はドライとも言える。
なぜドライなのかというと、自分に直接的に関係することには注視するが、関係しないことには無関心だからだと思う。
マンションにどのような人が住んでいるかなんて気にしない。まるでホテルに宿泊するかのような感覚がある。
面倒な人たちと距離を保ってエリアに踏み込まなければ、大したトラブルにも巻き込まれない。
誰かが困っていても助けない。自分が困っていても助けてくれないのだから。
この素晴らしくドライな埋め立て地のマンション群。本当に町なのか。部屋を買うことができるホテルじゃないのか。
と、やさぐれても始まらない。
人間関係が希薄でドライな地域といっても、マンションでの超近隣の付き合いにおいては、否が応でも人と人との距離が近くなる。新浦安に限った話ではないが。
この家族は、このような状態で、どうして下の階に人が住んでいる部屋に引っ越してきたのだろう。大丈夫だと思った理由が知りたい。
これだけ走り回る子供がいて、引っ越す前に問題が生じなかったのだろうか。
あるいは、引っ越してくる前も何かトラブルがあったのだろうか。
マンションであっても、下の階に人が住んでいない部屋があることだろうし、別に浦安市に住まざるをえない状況でもないだろう。
私の世帯が引っ越したとしても、次に入居する人たちが耐えきれなくなり、再びトラブルが起こることは間違いない。
この世帯は、そうやってずっと他者に迷惑をかけ、トラブルを起こしながら子育てを続けるのだろうか。
「そんなの大げさだよ。集合住宅なんだから普通だよ」と笑われるかもしれないが、うちだって子供たちを育てているから分かる。全く大げさではない。
実際に経験してやっと実感した。本人たちだけではなくて、周囲の忍耐を要する。理解なんて甘い言葉では通用しない。
私は若き日に上京してからずっとマンションで生活しているが、こんなに過酷な状況を経験したことがない。
マンションでは他の家族の存在を感じながら生活するものだ。仲が良いご近所であれば、それも安心に繋がることだろう。
が、さすがにこの状態は安心どころかストレスでしかない。
他の家族が起き出したり、眠りについたことまで、どうして私の家族が騒音と共にリアルタイムで感じなければならないのか。
うちの子供たちを含めて頭が割れそうなくらいの音とストレスに悩まされ、しかし自治会や管理組合が何とかしてくれるのかというと、何の頼りにもならない。
せいぜい、掲示板に貼り紙を用意するくらいの話だ。このような状況になったら、当事者間でトラブルを解決する他はない。
子供が音を出すのは自然だとか、明らかにベクトルが違った方向からの突っ込みも入ることだろう。
繰り返しになるが、自然ではない騒ぎ方だから困っている。うちだって子供を何人も育てているのだから、そのようなことぐらい分かる。
何が地域のコミュニティだと思ったりするわけだけれど、地域の繋がりというのはこの程度だと、私は最初から諦めている。
かといって、子供たちが小学校に通い始めると、気に入らないからといって気軽に引っ越すこともできず、いざ引っ越すとなれば多額の費用がかかる。
調査会社と弁護士を挟んで民事裁判だろうか。不毛だな。立ち退きは不可能だ。
大人が騒げば問題なのに、子供はいくら騒いでも問題にならないことだろう。せいぜい防音マットの設置だな。
なんてことだ。災難だと思って諦めるしかないのか。
子供たちが都内の私立中学に入学すれば、私はさっさと浦安市を出て、都内に引っ越す予定だ。私は浦安という街のことが好きではない。
しかし、これではタイミングが早すぎる。日の出地区の中で無駄に引っ越した後で、都内に引っ越すことになる。
こんなに忙しいのに、何故に他の家族の都合で、私の世帯が金を捨て、住所変更等の煩雑な手続きを取らなくてはならないのだろう。
では、その子供が悪いのかというと、私はそう思わない。
朝も夜も部屋の中を走り回り、跳び跳ねて、マンションの下の階の住民、つまり私たちの家族に苦痛を与えていることは確かだ。
このまま小学生になり、中学生になり、大人になれば、きっと苦労すると思う。訳あって、私はその将来が予想しうる。
しかしながら、生来の性質を自らの意思で制御することができれば苦労しない。おそらく心地良さや楽しさを得るような感じで走り回っているのだろう。
親が止めると子供は感情的になって収拾がつかなくなる。だからこそ、親は疲れ切って、あるいは面倒になって放置しているのだろう。
そこに下の階の住民がお願いにやってきたら、親としては「うるさいんだよ、こっちだって苦労してるんだよ」と、迷惑をかけてしまっている住民なのに怒りを爆発させるという構図なのだろう。
翻って、その子供の親が悪いのかというと、誰だって子育ては初心者から始まる。ここまで暴れる子供だと大変だろうなと思う。
だが、明らかに迷惑をかけている私の世帯に対して謝ろうとしない点や、騒音や振動が今でも続く点においては配慮が足りない。
同じ親なので子育ての苦労を察するが、「どうして、この状態で下の階に人が住んでいる部屋に入居するのか」と尋ねたい気持ちになる。
早い段階で状況を把握して現実を受け止めることができていたとしたら、騒音や振動を発して他の家族に苦痛を与えるようなことはなかったことだろう。
認めようとしないから、近隣トラブルが拡大する。
また、このような状況においては地域の理解や配慮も必要だと思いはするが、それは近隣住民同士の関係が保たれていればの話だ。
迷惑をかけていることを認めようとしていないから、謝りもしないし、注意に対して感情的になって反論したりもするのだろう。
ここまでは、よくあるマンションでの住民トラブルという話。
しかしながら、私は子供の頃から落ち着きがなかったので、この状況を他人事だと感じられずにいる。
ここまで激しい状態だったのかどうかは分からない。田舎にはマンションなんてなかったし、山や空き地、河川敷など、走り回る場所はたくさんあった。
同世代なら分かると思うが、当時は落ち着きがないと、親や教師が厳しく躾けたり、往々にして拳骨が飛んできたりもした。
ほぼ矯正に近い形で、社会という枠に無理やりはめるような時代だったと私なりに認識している。
孤立したり、助けられることもなく、潰される人だって多かった。
現在ではありえない仕打ちがたくさんあった。
私の両親の場合には、明らかに暴力という手段で私の落ち着きのなさを矯正しようとして、私はとても辛い目に遭いながら育った。
かといって、私が落ち着きのない性質を望んで生まれたわけではないし、周囲との違和感に苦しみながら大人になった...というか、今でも違和感を覚えている。
子供の頃は、両親は毎日のように怒っていたように感じたが、実際は苦しんでいたり、心配していたのだろう。何とかして社会に順応させねばと。
両親の気持ちに気付いたのは、私が父親になってからのことだった。
人には長所と短所があって当然で、全てが個性だ。生まれたからには、生きる。それだけのことだ。
親になった以上は、子供の現実を受け止めることが大切だと信じる。
子供が他者に迷惑をかけてしまったのならば、親が謝ることは当然だ。トラブルが生じたら、それをなくすように対応することが筋だと私は思う。
私の場合には、人生の様々な岐路で多くの師のお世話になり、結果としてたどり着いた職場を眺めてみると、周りは落ち着きのない人たちばかりだ。
皆、苦しみながら生き抜いたのだろう。
昔ならともかく、現在では、子育てに悩んでいれば助けてくれる人たちがたくさんいる。
ただし、親のこだわりや無知によって、差し伸べられた手をはねのけてしまうと、子供に助けは届かない。
また、その必要性を感じた時には手遅れになりかねない。
このような騒音と振動、さらには緊張感のあるご近所付き合いに遭遇したわけだから、私の家族にとっては確率論的に運が悪かった。
しかしながら、階上の家族にとっては、必ずしも運が悪かったと言えない気がする。
なぜなら、子供の頃に落ち着きがなかったとしても、そこからどうやって生きるのかという道標が下の階に住んでいるわけだから。
全く一致することはないだろうけれど、私が子供だった頃にどのように感じたのかを説明すれば、子育てのヒントになるはずだ。
また、そのような状況で生き続けた人だからこそ見えてくる将来の選択肢がたくさんある。
子供の目線になると、この騒音トラブルを解決することは簡単だ。
トランポリンを買って、上の階の家族に寄付すれば、家の中を子供が走り回らなくなる。
私の自室にどうしてスピンバイクがあって、ずっと漕ぎ続けることで落ち着くのかを説明すれば、あの夫婦は分かってくれるのだろうか。
体の一部をずっと動かし続けていないと、ストレスがたまって疲れてくる。動かすと楽になる。
それが子供の頃から、今のようなオッサン、さらには死ぬまで続くんだ。親を恨んだことはないけれど、もっと普通に生まれたかった。
しかし、これはこれで面白い人生だ。ずっと動き続けていられる仕事が見つかれば天職だぞ。何も疲れない。労働が心地よい。
そして、私は子供の頃にトランポリンが大好きだった。
何時間でも跳び続けていた。
なので、トランポリンを上の階の家族にプレゼントしよう...
とすれば、「馬鹿にするんじゃないわよ!」と再び感情的になって喧嘩を売ってくることだろう。
次に、自分を少しでもコントロールすることができるようになってきたら、没頭して取り組むことができる「何か」を探すこと。
それが見つかれば、生きるための力に繋がる。
何かを見つけるために、親は子供の現実から逃げてはいけない。
必ず何かを持っているが、探そうとしなければ見つからない。
とはいえ、ここまでの迷惑を受けていて、何故に私の経験則を伝える必要があるのかと思いはする。
伝えたところで真正面から話を聞いてくれるとは限らないし、それが現実でもあるのだろうな。
何だかやり切れない気分だ。