2023/10/16

ひとり暮らしを始めた町を再び訪れて

たまにやってくる休日の仕事を終え、普段は全く乗らない電車に乗った。途中で路線を何度か乗り換えて、数十年前の記憶をたどりながら窓から見える景色を眺めた。車内のほとんどの乗客は不自然な角度で首を曲げてスマホを見つめている。ネットさえ普及していなかった当時であれば、まるでSF映画のような状況だ。

お世辞にも立派とは言えない駅で下車し、未だにエスカレーターが設置されていないのかと呆れながら階段を上り、地味すぎる小さな構内を歩き、階段を下って駅の外に出た。眼前には若き日に見た街並みが代わり映えしない状態のまま残っていた。30年近い時間が流れたとは思えないほどに変わっていない。

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2023/08/12

リタイア後に故郷に戻るか否か

久しぶりに妻子を連れて実家に帰省した私は、真夏の昼下がりにひとりでウォーキングに出かけ、何とも奇妙な雰囲気を感じながら故郷を広範に歩き続けた。豊かな自然の中に集落があり、道路があり、家屋があり、田舎ではあるが町自体は存在している。数十年が経って姿を変えてはいるが、子供の頃に見慣れた風景もたくさん残っている。

ところが、老若男女を問わず町の中を通行する人々が見当たらない。多くの人たちにとっては休日なので、買物に出かけたり、散歩している地域住民がいるだろうと想像していた。時折、通行する自動車や家の窓から住民たちの冷たい視線を感じたりもしたが、自転車や徒歩で通行している人と出会わない。子供の頃に経験したことがない町の姿だ。町全体が人のいないパラレルワールドに転位したような感覚さえある。

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2023/07/01

レトロでシンプルな生活を取り入れながら、地に足をつけて老いたい

単語の収まりが捗らずに録のタイトルが二転三転しているが、おそらくこのテーマが今後の生き方で大切な存在になる。最近は社会の変化がとても大きくて、それまでの生活で考えたことがなかった事象が次々に起きている。それらの変化の中で貪欲に利益を求めようとする人、行き場のない不満を溜めている人、よく分からないまま混乱して過ごす人。とにかく色々と気になって疲れる。

出勤時の新浦安駅ではディズニーに遊びに来た外国人たちの姿が目立つ。最近では欧米系や中国系、韓国系だけでなく、東南アジア系の人たちが多くなった。賃金や物価の差が減り、他国の人たちにとって日本が割安な海外旅行先になったからだろう。対して、多くの日本人は海外旅行どころか外食さえ躊躇する生活を送っている。他国が急に元気になったのではなくて、日本が勢いを失って迷走しているだけのことだ。バブル崩壊から数十年も景気が停滞したまま衰退を待つことになろうとは。

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2023/05/28

奴隷のような扱いだと嘆く友人のチート冒険者のようなリフレッシュ

新浦安に住み続けているとストレスによって重度のうつ病になりそうなので、たまには奇想天外で明るい話を記す。私ではなくて友人の実話だが。

「仕事で奴隷のように扱われ、家庭で妻から奴隷のように扱われ...疲れたので遠くに行って、羽を伸ばそうと思います」という内容のメールが届いた。メールの差出人は古くから付き合いのある同世代の友人。人生色々だなと、私は彼に深い同情を感じつつ、しかし常人ではありえないシュールな展開に驚いて笑い声が出た。

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2023/03/23

理想的なオッサン像

通勤客とディズニー客で相変わらず混み合っている帰宅時の駅で改札に向かって歩いていたら、背後から誰かに足元を蹴られて靴が脱げた。ウォーキング用のシューズにLock Laces製の伸縮性のある靴紐を取り付けていたので脱げやすかったということもあるが、意図的にカカトを蹴らないとこの状態にならないだろう。

春先の駅や電車はおかしな人がたくさんいる。ディズニー客の鬱陶しさに苛ついた通勤客もいる。私が早足で歩いていたことが気に入らなかったのだろうか。私は脱げた靴を拾わず即座に振り向き、蹴ってきた人物を捕まえて駅員のところに行って警察を呼ぼうと思った。視線の先には、白髪頭でスーツを着ていない普段着の中年男性がいた。私よりも5歳程度は年上だろうか。明らかに五十路のオッサンだ。

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2023/01/19

高嶺の花は枯れないらしい

昔の話になるが、大学に合格した私は、寂れた田舎町の実家で大きなボストンバッグに身の回りの物を詰め、新幹線の駅に接続する在来線の列車に乗った。そこから新幹線に乗り、首都を目指した。当時の私の前には自らの選択や成り行きによって進むことができる無数の並行世界が広がっていた。

オッサンになった今では日常になった東京の街が、当時はとても大きく見えた。乱立するビルや人の雑踏の中で自分が砂粒のように小さな存在であることを実感し、それでも安定した職に就き、伴侶と共に家庭を築き、この都会で生き抜こうとした。

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2022/12/11

ちょいと寂しい夜のうた

職場に出勤してメールボックスを開けると、同世代の同僚が亡くなったという知らせが届いていた。この歳になってくると、同僚の親が逝去したという連絡の場合には感情が動かない。しかし、年齢が変わらない同僚が亡くなるとさすがに気持ちに響く。今回で何人目だったか。

この職場は人の死と近いところにあるからなのか、部署を越えた人間関係が疎遠だからなのか、スタッフが亡くなってもとりわけ何の変化もなく、理由を詮索するどころか話題にもならない。1本のメールが配信されて、それでお終い。たぶん、自分が死んだ時も同じ感じなのだろう。

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2022/10/18

10年単位の時間枠

どれだけ高尚な文体で構成されるブログや書籍であっても、読んだ後で勉強になったと感じないことはよくある。それらが無意味だと言っているわけではなくて、他者が発した情報を自分に取り入れる過程では幾重にも連なった思考のフィルターが存在しているのだろう。

一方、他者から見ると大して意義深くないことであっても、自分の内面から生じる「気付き」は、本人にとっての生き方を方向付ける道標になったりもする。たった数日間ではあるけれど、プチ家出によって半年以上続く浮動性の目眩から解放された時、私はとても単純なことに気が付いた。

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2022/08/25

老いに伴う人生観の初期化が待ち遠しい

相変わらず変化に弱い私は、季節の変わり目の気持ち悪さと浦安住まいの地獄、さらには夏休みのディズニー客の鬱陶しさによってストレスを蓄積し、浮動性の目眩に苦しんでいる。目眩を我慢していたところ、吐き気どころか首や肩まで痛くなってきた。自律神経に過度の負荷がかかっていることをここまで実感すると、むしろ面白くも感じる。

夏休みにディズニーを目指してキャリーバッグを引っ張って押し寄せる人波に罪はない。商業施設と住宅を混在させた街の行政と、その街に引っ越してきた自分が愚かだったというだけのこと。しかし、ここまで私が苦しんでいるにも関わらず、この苦しみを妻や子供たちが何ら理解していないことに絶望する。

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2022/06/04

神崎川にかかる庄左エ門橋の上で見かけた生き方の鍵

いつもは「谷津道」のカテゴリーにて録を記しているサイクリングの話だが、今回は「生き方」のカテゴリーに残したい。自分が生きる上で意味があるエピソードだ。

サイクリングの間にひとつの「気付き」があった。五十路近くのオッサンの人生なんて螺旋状に連なったルーティンの繰り返しだと思っていたけれど、ふとしたきっかけで気が付くことがあるものだ。重要なきっかけになるエピソードを「鍵」と呼んだりもする。確かにこれは鍵だな。

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2021/12/31

奴隷の鎖を外して楽になろう

この2週間は仕事と家庭のルーティンに加えて、自転車用品の梱包とメルカリでの出品を繰り返していた。録を記している余裕はなかったし、自分は何をやっているのだとおかしくも感じたが、勢い付いてからの取り組みは有意義に感じた。

コロナの第5波が落ち着いた11~12月の期間において、自らの精神が暗い井戸に落ちたような虚無感と絶望感を覚えた。その理由については、先の録にて記した通り、雑多なストレスがループすることで負の思考の淵に引っ張り込まれたらしい。この井戸から抜け出すためのヒントは意外なところにあった。

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2021/09/04

五十路まで生きると経験がパターン化するらしい

ワクチンが行き渡っていないにも関わらず、あえて被害を広げる方向に向かって進む人たちの姿に辟易しているのだが、まあそれも人の多様性だと思うことにした。とどのつまり、文明が発展した現在であっても、中身については昔とあまり変わっていないということだ。これは私なりの経験則に基づく「答え」だな。

同じような「答え」は、他にもある。五十路近くまで生きていると、「以前にも同じようなエピソードがあったな...」という経験が積み重なる。それらを区分してみると、実にシンプルなパターンが見えてくる。残りの人生はそのパターンに基づいて生きればいいというわけだ。

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2021/08/25

物事の理由を考える人、考えない人

人には大きく分けて2種類のタイプが認められる。様々なことについて、その理由を考えるタイプと、あまり理由を考えないタイプ。前者が理系っぽくて、後者が文系っぽくもあるが、学問的には双方において理由を考えることが必要になる。

私的な解釈でいえば、前者は学究肌の人に多く、後者はパリピに多い。パリピとは「パーティーピープル」の意味だそうだ。子供が教えてくれたのでなるほどその通りだと理解して使ってみることした。その違いを感じるきっかけになったのは、昨今のコロナ禍における人々の言動だった。

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2021/07/01

馴染みの小料理屋に立ち寄るオッサンって、素敵だと思うよ

いざ本当に五十路近くのオッサンになってみると、話し相手になる人がとても少ないことに気付く。もちろん、声を出せば人と話をすることはできるけれど、上辺だけのコミュニケーションというか。話したところで互いに理解し合ったり、共感して励みになるという期待が持てない。

ほら、昔のドラマとかで、女将さんがひとりで経営しているカウンターだけの小料理屋にオッサンが通って、その日の旨い料理を食べながらマッタリと酒を飲んで話しているシーンがあったりする。あの姿って、本当にいいよなと思う。

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2021/04/30

決して後ろ向きにならない自問自答

たった数日であっても、毎日苦しんでいる長時間の電車通勤、ならびに自宅と新浦安駅の往復が減ると、私の疲れはここまで減るのかというくらいに回復している。そのためブログの筆も進む。

そうだ、以前はたまに行っていたのだが、頭の中で浮かんでくるいかにも後ろ向きな自分への「問い」に対して、前向きだけれど明後日の方向の思考で自分に答えるというトレーニングをやってみたい。

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